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人生30過ぎてからでしょう。

好きな本、映画、日々考えていること、気の向くままに書きます。

女の強かさ

 

妻の高校時代の友達が遊びにきて、ネイルについて熱く語ってくれたんだけれども、女子力情報に目がない私は耳をダンボにして聞いたんだけれども、女子は結局のところテンションを上げるためにネイルをするんだそうだ。

しかもその女がやるネイルは、一回一万円近くかかるらしく、しかもそれは三週間くらいしかもたないらしくて、だからこそそれを美しく撮影してインスタグラムなるもにアップするそうなのだ。

そして多分爪以外にも女にはオシャレするところがたくさんあって、男からすると除毛さえしてくれれば、ネイルとかアクセサリーとかほとんどどうでもいいので、恐らくもうそこらへんのオシャレは、対男というよりも女同士の戦いなんだろうなと思うのだ。

丸の内とかには本当に俗に言うイイ女がいっぱいいて、カラダ全身美しいんだけれども、そういう女は、そこにかけられるお金と時間が私にはあるんですよって言いながら歩いているのかもしれない。

でも、そこらへんの意図は男には皆目伝わらないので、他の女に向けてなのか、それか純粋に自分のテンションを上げるためなのか、とにかく目の前の一日を楽しく美しく生きるためなのか、なんだかわからないんだけど、そういう女の強かさが私にはたまらないのである。

 

それでは、男は自分のテンションを上げるために何をやるのか‥‥それは多分好きなものを収集することなのかしらと思う。

例えば私であれば、好きな本をしこたま集めて、自分のルールで本棚に並べて、それを眺めているだけで、アレキサンダー大王みたいな気分になるのだ。

そう考えると、男は獲る側で、女は獲られる側なのかもしれないけど、女からしたら獲られた後も命は続くわけだから、とりあえずネイルとかガーデニングとか御朱印集めとかするんだろうなと思うと、やはりそういった女の強かさに、私は憧れてしまうのである。

 

 

社会に戻る前に

 

社会に戻る前に、その目的をあらためてここに書き記す。

いったん戻ってしまうと、なぜ戻ったのかを忘れてしまうことが往々にしてあるからだ。

 

私は優れた小説を書くために社会に戻る。

優れた小説とは、現実社会に新たな宇宙をこしらえるような小説だ。

そして、私が戻る社会とは人であり、人との対決である。

対決というのは、単に男でいう殴り合い、女でいう髪の引っ張り合いではなく、金と時間のやりとりである。

ではなぜ男が髪の引っ張り合いではなくて、殴り合いであるかというと、五指で掴めるほどの頭髪を持つ男の数が、女のそれよりも圧倒的に少ないからである。短髪の男二人が、親指と人差し指のみで互いの髪を掴み合い、引っ張り合っていても、それは対決ではなく、どこか異国の挨拶であろうとみなされる。そして、女が殴り合いではない理由、こちらはとても簡単で、大切なネイルがあるため硬く拳を握られないからである。

と、これまでの五行は、本筋とは全く関係のない話で、読者の時間への冒涜であり、つまりは読者に対する私からの対決である。

 

この三年間、私は現実社会を拒絶し、先人の書いた小説社会と対決してきた。

しかしこの対決はワンウェイな対決であり、相手の金と時間には一向に影響を及ぼすことができない。

このやり方でも優れた小説を書ける輩もいるだろう。しかし、私にそれは叶わなかった。

この期間、私は現実社会を絶つため、スマホからあえてガラケーに機種を変え、「SNSやってる?」と対決を挑んでくる輩を、「ガラケーやからやってないねん」とはねのけていた。皆私のことを電話ボックス君と呼んでいただろう。

仕事中は定時で上がることだけを考え、残りの時間を小説を読むことと書くことだけに費やした。しかし、ワンウェイ対決だけで生まれた私の小説は、それを書いた私自身のように、弱っちく、深みのない代物だった。

この事実は私を幾らか苦しめたが、また現実社会に戻るきっかけを与えてくれることとなった。

 

私は社会に戻る。

身の毛もよだつ速さで打てるようになったガラケーは、スマホに戻した。

ハロー、フリック。ハロー、スワイプアンドタップ。

優れた小説を書くため、私は社会に戻る。

 

Now, I am in Tokyo.

 

ハイパーメディアクリエイターだった妻の進学で、コンクリート・ジャングルTOKYOに引っ越してきて、もうすぐ一か月になります。

 

大人の事情で都心からずいぶん離れたアパートに越したので、全然コンジャン(コンクリート・ジャングル)感がありません。でも念願のスイカを手に入れて、塩ふって食べたわけじゃなくて、改札にピッとして、通過できたときには妻とハイタッチしそうになりました。改札の次は妻にピッ。

 

引っ越して間もなく、妻は学校が始まり大忙しの日々ですが、僕の方は就職活動以外することがないので、家のまわりを走りまくってたら、三日目で、マダムに道を聞かれて、丁寧にお答えすることができるようになりました。

 

妻は帰宅すると、毎晩その日の出来事を目をキラッキラさせながら報告してきやがります。それをほうほうと聞いているだけでは、さすがに忍びないので、僕だって日中に何かして、新しい話題や情報を妻に提供しなければならないのですが、先日は、「この部屋の天井、意外と高くて、椅子の上に立っても全然頭当たらないんだぜ」って言ってやると、「そっ、そうなんや……」と妻は視線をそらしたので、「なんならやって見せようか?」と得意気に言うと、「いっ、いいわ……そうや、今日もたくさん宿題あるんやった」と部屋を出て行ってしまいました。

世の中の奥さん。「ねぇねぇ、そっちはどんな一日やった?」って、失業中の旦那に聞くのは、「詰めるなら小指か薬指どっちがええねん?」って聞くようなもんですよ。絶対にやめましょうね。

 

このまま仕事が決まらなければ、僕はやっとタフな小説を書けるようになるか、東京2020にランナーとして仕上がってしまうか、はたまた自室の掃除だけでは飽き足らず、共用部分まで掃除し始めて、管理会社に就職してしまうかのどれかだと思うんですが、そんなゆったりと構えていられる根性や度胸やお金も無いので、すぐに安定した仕事に就くことでしょう。

 

しかし東京という街は、すんごい街ですね。

たとえば新宿に行くと、人がめちゃくちゃいて、こんなに人がいるのに、みんな違う顔しているっていう事実がほんとうにすごい。

満員電車でぎゅうぎゅうになってると、まわりの人と自分の境目がわからなくなってやばい。

みんな違うのにみんな同じという感じが、東京ではバリバリ伝わってくるのです。

 

はたして僕はこの街を好きになれるのでしょうか。

そのためには、まず仕事をして、ちょっとした恋をして、魔法を無くして空を飛べなくならないといけないのかもしれません。

 

その街に溶け込むというのは、そう簡単にはいきません。

歳を重ねればなおさらです。

 

それでも、僕は明日が愛おしくて仕方がないのです。

 

32年と6カ月生きてようやくわかったこと

 

32年と6カ月生きてようやくわかったことは、

僕が天才じゃなかったということです。

 

お恥ずかしい限りですが、32年と6カ月間、僕は自分のことを天才だと思っていました。

 

スラダン読んで流川になれると思ってバスケやったし、

東大に入れると思って受験勉強したし、

ダウンタウンになれると思って漫才やったし、

村上春樹になれると思って小説書いているけど、

 

結局のところ僕は、なんてことないオーディナリーピーポーでした。

 

いわゆる大人のみなさんはもっと早い段階でそのことに気付いていらっしゃるのか、

はたまたそれを気付いた段階で大人になるのか、僕にはよくわかりませんが、僕は何度か経験してきた挫折のなかで、『自分には何もない』ということを認めた時点で、本当に何もない人間になってしまうと信じていました。

 

でもそれは間違いだとやっと気が付きました。

僕にはとことん何もなかった。

 

しかし、その事実を受け入れると、寂しい半面、とても気が楽になりました。

もう他人はもちろん、自分にも期待する必要がなくなったのです。

 

こうなったら残りの人生、自分が楽しく生きられるよう、僕の関わる社会を僕が生きやすいようにアジャストするだけでいいのです。

 

たとえば、僕は見た目はオッサン、心は乙女みたいな人間なので、薄汚い男どもがいる業界には、さよならバイバイして、女性が多い、福祉とか保育の仕事でお給料をいただけばいいのです。

そしてなるたけ定時で帰って、掃除洗濯をして、料理をして、奥さんの帰りを待てばいいのです。

そうです。僕は家事好きなのです。

 

それで、もし少しだけ欲張ってもいいお金と時間があるのなら、好きな小説を読み、気持ちの悪い小説を好き勝手に書き続ければいいのです。

 

 

僕のいちばん好きな映画、ウーピー・ゴールドバーグ主演の『天使にラブソングを』にこんなセリフが出てきます。

 

Oh, expect from yourself and you respect yourself.

You control your destiny.

 

自分に期待すると、自分を尊敬できる。

運命は変えられる。

 

本当の人生は、自分のいちばん好きを否定するところから始まるのかもしれません。

 

夢みる若者たちへ

 

『努力にまさる天才なし』

という言葉がありますが、それは真っ赤な嘘っぱちです。

 

みんなスタートラインは一緒、みんな一日は24時間とか言いますが、それも真っ赤な嘘です。

 

そんなことないよ!

人はみんな平等、夢は努力すれば必ず叶うよ! 

と、信じているあなた……

 

あなたは『障害者』と呼ばれる人たちを知っていますか?

私は仕事で障害者と生活しているので、彼、彼女たちのことを一般の人よりも理解しているつもりなのですが、彼、彼女たちは、この日本という社会で生きる上で、本当に苦労しているのです。

 

例えば、あなたが、くそ暑い日に、ペットボトルの水を欲しがってスーパーに行ったとします。

『健常者』と呼ばれるあなたは、3分もあれば、入店して、棚からペットボトルを取って、レジに持って行って、会計を済ませて、喉を潤すことが出来ますが、車椅子で生活している人だったらどうでしょう? くそ暑い日に喉を潤すまでに、どれだけのハードルを乗り越えなければならないでしょうか?

 

みんな平等に24時間与えられているといいますが、世の中には服を着るのに1時間以上かかる人が実際にいるんです。

もちろん時間はお金で買えますが、障害者は、まず自力でお金を稼ぐことが難しいんです。

(国から与えられているお金だけでは、障害者は、健常者には勝てないんです。私はここで人間の幸福の話をしているわけではありません。現在の日本という社会で生きていく現実の話をしています)

 

つまり、『障害者』と呼ばれる人たちは本当に苦労しているんです。

そして、その人たちは、自分からその運命を選んだわけでもなく、生まれながらにして、その人生を強いられることになるんです(後天的に障害を持った人を別にして)

 

 

それでは、その逆もあることを、なぜ想像できないでしょうか?

 

生まれながらに障害を持つ人もいれば、圧倒的な才能を持つ人も、いるに決まってるじゃないですか。

(障害と才能というのは、私はほぼ同義語だと思っています。生まれたその社会、時代において、それは障害にも、才能にもなり得るのだと私は思います)

 

知的障害があって一生唸り声だけをあげて暮らす人が生まれるのであれば、天使みたいな声で一生歌を歌い続ける人が生まれてあたりまえなんです。

 

たとえば、宇多田ヒカルとか、松本人志とか、村上春樹とか、そんな天才に、凡人の一生、80年くらいの努力で勝てると思ったら大間違いなんです。

 

でも、それでも、

そんな現実を理解して、

その上で、若者には、夢をみて欲しい。

 

天才にはできなくて、凡人にできる表現方法は、もがき、そして苦しむ姿だけなんだと思います。

 

すきなひと

 

僕には好きな人が二人いる。

村上春樹宇多田ヒカルだ。

彼と一緒にサッカーをしたり、銭湯に行ったり、ナンパをしたことがないし、

彼女と一緒に映画をみたり、公園に行ったり、セックスをしたことがないから、

おそらく二人のことは、これからもずっと好きだと思う。

 

好きという言葉はとても曖昧で、オムライスやコインランドリーに対しても僕は使っちゃうんだけど、二人に対しては、村上春樹宇多田ヒカルに、なりたいと、僕は思うのだ。

 

彼の小説を読んでいるときは簡単で、彼の立ち上げたキャラクターを通して彼になることができる。

 

彼女になるにはいささか難しくて、イヤホンで彼女の曲を聴き、目をつむり、両耳に届いている彼女の声にケーブルを介してたどりながら、彼女の細部までを想像しなければならない。

例えば僕の一番好きな曲、『time will tell』を聴いているとき、歌っている彼女はどんな様子だろうと真剣に想像する。彼女の気持ちから、レコーディングの日の彼女の手先や足先の様子まで。

time will tell』で彼女は、「今の言い訳じゃ、自分さえごまかせない」と歌う。

彼女はこのフレーズを15歳で世に出した。こんなことを言っちゃう15歳を、30を超えたおっさんが真剣に想像すると、彼女の歌を、本当に自分が歌っているかのような感情になってくる

 

頭のなかで二人になることだけでは飽き足りて、現実の社会で二人になろうと思うようになった。

 

彼のように小説を書き、マラソンを趣味にしたが、自分の書いた小説はちっとも面白くないし、マラソンも、腹を空かせ、エンゲル係数と洗濯の回数を増やすだけだった。

 

彼女のように、女性みたいな髪型や服装にしてみたり、英語を学んだり(歌を歌ったり、作詞することは出来なかった。小説は文字の読み書きが出来れば可能だが、音楽は、もっと原始的だから、そう簡単にはいかない)もしてみたけど、英語は、TOEIC900点くらい獲っても、英語そのものがツールだから、それを使ってやりたいことがないと意味がないし、男の僕が女性になることは、神様にたてつくことになるから、大切な妻がいる僕にはそんなことできなかった。

 

現実は、刻々と僕のことを、村上春樹ではない、宇多田ヒカルではない、と言ってくる。

それでも僕は、自分が村上春樹ではない、宇多田ヒカルではないということを信じられない。

 

二人みたいになれるように努力することは、他人の人生を生きることになるかもしれない。

でも、いろいろ挑戦したことがある人なら分かっていただけるとおもうが、『自分』なんていうものは存在しない。村上春樹宇多田ヒカルが好きという人間が僕なのだ。

 

ノーベル文学賞を獲ることより、

グラミー賞を獲ることよりも、

僕は、何回読んでも、聴いても、「今日もこの一日を生き続けよう」と思える作品を作りたい。

おそらくそれが、二人に憧れ続けた僕が分かる、二人の想いなのだ。

 

世界をつなぎとめる言葉

 

週末、旧友に会うため、関西に行った。

一年ぶりの関西弁は、もう耳慣れない言葉に聞こえた。

日曜の朝、新快速列車に乗り込み帰路につくと、しばらくして車内アナウンスが流れた。

「お客様にお知らせいたします。○時○分、吹田駅ホーム内で人身事故があり、その影響のため、現在、大阪京都間の運行のめどが立っておりません。この電車も次の西宮駅で一時運転を見合わせます……」

休日の朝でも新快速列車の乗車率はほぼ100%で、サラリーマンに代わって様々な乗客たちが乗り合わせていた。みんなには何かしら予定があったが、僕には電車を何本か乗り継いで家までたどり着く、それだけしかなかったので、慌てる乗客の様子をじっくり観察することにした。

電車が西宮駅に入り、速度を緩める。

みんなスマホをしゅるしゅるしながら次のアナウンスを待つ。

「西宮ー、西宮ー」、電車が止まり、扉が開く。

「お客様にお詫びとお知らせいたします。吹田駅で起きた人身事故のため、現在、大阪京都間の全線の運行のめどが立っておりません。新しい情報が入り次第お伝えいたします」

半分の人がスマホを見るのをやめて、騒ぎ始める。

家族や友人がいる乗客は、「待つ?」「あきらめてタクシーにする?」「とりあえず行けるところまで行った方がいいんやない?」「お父さん、ちょっと駅員さんに聞いてきて!」とか言っている。

一人きりの乗客は、隣の一人きりの乗客と、「これどうなるんでしょうね?」「私、大阪で友達に会うのよ」「この電車動くんですかね?」「西宮て、せめて尼崎で止まって欲しかったわ」とか言っている。

残りの半分は、いまだスマホで何かを検索している。スマホは現場の駅員より、状況に詳しいのかもしれないし、とっくにあきらめてパズドラをやっているだけかもしれない。

運行ダイヤを失った列車は、鉄道ミュージアムの展示物のようで、乗客たちは意味もなく出入りを繰り返している。

「人身事故て、このクソ忙しいのに何してくれてんねん!」と新喜劇みたいに怒鳴り散らすおっさん。それ聞いて泣き出す子ども。英語でのアナウンスが全くないため、呆然とする外国人観光客。見かねてつたない英語で通訳を始めるインテリ風男子大学生、「アットスイタステーションサムワンゴットアクシデント……」「Pardon?」

壊れかけている世界をなんとか元に戻そうと、みんな必死でしゅるしゅるスマホを操っている。

 

そこで僕は想像する。

もしアナウンスが次のような内容だったなら……、

「お客様にお知らせいたします。○時○分、吹田駅ホーム内で、男子中学生が回送列車に飛び込み、即死しました。そのため、現在、大阪京都間の運行のめどが立っておりません。この電車も次の西宮駅で一時運転を見合わせます……」

新喜劇風のおっさんは怒鳴り散らすのを止めるかもしれないし、この後の日曜の楽しい予定を一部変更する人もいるかもしれないし、急に涙を流し出す人だっているかもしれない。

とにかく実際に流れたアナウンスがあった世界とは、異なる世界が僕の目の前に現れるだろう。

教室で、おそらくいない人と扱われていた男子中学生が、最後の最後に何万人もの現実をかき乱している。

しかし、二時間後、『人身事故』という言葉のおかげで、中学生が揺らした世界は、元の世界に戻る。止まっていた列車もダイヤを取り戻し、再び乗客たちを目的地まで運び続ける。

 

こういう言葉が世界をつなぎとめている。

壊れかけた世界をそっと元に戻している。

おそらく『人身事故』以外にもそういった言葉はたくさんあると思う。

そんな言葉たちが、いいか悪いかは別にして、僕の好きな『何か』を覆い隠しているには違いないのである。