もう一度夢をみる

よくね。もし生まれ変わったら何になりたい? とか、一億円当たったらどうする? とか、そんなやたらイェーイな質問がありますがね、

『いや、わたしは今で十分幸せですよ。だから、もし生まれ変わったとしてもまた同じような人生を生きたいですし、仮に一億円当たったとしても、ローソンのプレミアムロールケーキを5個ほど買わせていただいて、あとはユニセフに寄付いたします』

なんて答える人はおそらくシャーリーズセロンくらいなもので、(格別シャーリーズセロンに対して含蓄があるわけではありません。あたしはただ横文字が好きなのです。ダコタファニングとか)

そんな質問が跋扈するんだから、大抵の大人は現在の自分に満足がいっていないわけで、

でも、30年以上生きるとそれなりに自分の人生にも意味があったんちゃうかなぁとか思えたりして、お給料がもらえたり、帰ったら「おかえり」って言ってくれる人がいたり、自分の好きなお店とか場所があったり、日本酒旨いなぁとか空きれいやなとか思えたり、とにかくそんな自分をあっさり否定するのも悔しいもので、やから、

もし、『明日からのあんたの仕事とか家族とか責任とか、あたいがイッサイガッサイ引き受けますさかい、あんたはもう好きなことしたらよろしいがな』おじさんが目の前に現れたらどうする? っていうシュイ―ンな質問に変えます。

 

あたしの場合は昔からR&B女性シンガーになりたいって夢があって、宇多田ヒカルちゃんとかMISIA姉さんが出てきたときは、それはそれは腰抜かすほどびっくりして、鏡の前で、「キャニュキパシクレ?」とか「キ~スして抱~きしめて♪」とか歌ってたら、あらま、あたし男でしたやん。ヒゲあるし、声、カスみたいですやんってなことに改めて気が付いて、ほんまもし女の子やったら、今すぐ頭コーンローにして、のど飴舐めてLA行ったるのに、神様なんて殺生な、てな感じで、その夢をそっと実家の押入れの中に閉まって生きてきたんだけど、その数年後、あたしがLAやなくてOSAKAで英語の勉強してるときに、実家が建て替えられて、押入れの中のあたしの夢が風に乗って、梅田のタワーレコードまで飛んできて、あたしが丁度ヘッドフォンの視聴再生したら、アリシアキーズ女史の歌声が流れて、ドカーンってえらい衝撃うけて、「ウチ梅田で何してますの、はよLAいかな」って思い出して、パスポート写真撮りに行ったら、前よりも増してヒゲ濃くなってて、せまい証明写真機の中で「どえらいブスやな」ってつぶやいたその声ったら、ヘドロみたいなもんで、そんな感じで、またその夢を今度は、淀川に流したのでした。

 やから今さらシュイ―ンおじさんに「好きなことしたらよろしいがな」って言われてもとんと悩むんだけど、「もう、決めきれへんお人やな、そんなんやから、スネ毛が熱帯雨林みたいやねん、もう明日には決めてな」って言い放たれて、帰ってスネ毛さすりながらテレビ見てたら、都会の雑居ビルの飲み屋街に群がるサラリーマンたちのドキュメンタリーみたいなんやってて、そんな中のとあるスナックに、歌のめっぽうお上手なオネエのママがいて、疲れたサラリーマンたちがこぞってそのママの歌に酔いしれているみたいなことやってて、「あっこれにしよう」と思いました。

映像に出ていたママはママというかママンといった感じだし、歌っていた歌も、R&Bではなく、テレサテンの『時の流れに身をまかせ』でしたが、それはそれでええやんと思えたところがあたしの30年なのかなぁとか思ったのです。

30キロ走ると

実はマラソンが趣味なんです。はい。

隙あらば走りにいくので、洗濯物が増えて、嫁にメって言われてるんです。でもだいたいは僕が洗濯しているので、モって言い返してるんです。

年に4回くらいは大会に参加していて、今月末もフルマラソンに出るので、予行練習がてら先程30キロくらいさっくと走ってきたんです。嘘です。さくっとなんて嘘です。最近雪降ったりして全然練習できていなかったし、昨日はなんかよく分からない灯明まつりに、仕事終わりで嫁に連れて行かれて、「ヘイ!試飲どうだい?新酒だよ!」って言うすこぶる陽気なおじさんの声に導かれて、ペロってやっちまったら終いで、嫁が灯篭に気を取られている隙に、熱燗やらふぐひれ酒やらシコタマ呑んでしまって、案の定二日酔いなのに、明日は雨降るかもしらんから、長い距離練習できるのは今日しかないぞOLE!って歯を食いしばりながら走り出してはみたものの、15キロあたりから、胸気持ち悪いし、脚痛いし、って涙出てきて、でも一度やるって決めたことはやりきるのがOLE!って走り続けてたら雨が降ってきて、おかげで泣いてるのバレずに済むやんAME!ってな感じで走り切ったんです。

よく、「何で走るの?しんどいだけじゃん」って言われることがありますが、走るのが好きな人にはそれぞれ理由があって、僕の場合は、ちゃんとそこにゴールがあるからだと思います。

フルなら42キロとちょっと、ハーフなら21キロとちょっと。そこには必ずゴールがあって、どんなに遅くても、どんなにカッコ悪くても、あきらめなければそこに必ずゴールが待っているんです。当たり前のことだけど、これって今の社会では結構珍しいことなんじゃないでしょうか。やっと42キロ走って、ゴールテープを切った瞬間、しょうもない上司が出てきて、「ごめん!あと5キロくらいお願いできる?」って言われたりすることは、マラソンには絶対ないのです。

ってそんな話をしたかったんじゃなくて、今日、走りながらひらめいたことについて書きたかったんでした。しっかりしろOLE!

 

フルマラソンの経験がある人なら分かると思いますが、残り10キロくらいからは、ほんまにしんどくて、いけるんやったら全裸で走りたいくらい、身に着けているモノとか全てがウザく感じてきます。やのに始めはいろいろと不安やから、キャップ被って、サングラスして、アイポッド耳につけて、時計つけて、あめとか栄養剤とかウエストポーチに入れて、さらに心配性の人は、コースアウトして変な集落に迷い込んで、鬼のイケニエにするぞとか村長に言われるかもしらんから、千円くらい持っていこうかとか、とにかくやたら武装してみんなスタートラインに着くんです。

 

今日もウエストポーチにチュウチュウしちゃう栄養剤を入れて走り始めたんですが、コレがやたら重くて。残り10キロくらいでチュウチュウしようと思っていましたが、もう我慢できなくて、残り15キロくらいでチュウチュウしたら軽くなって、あー美味しかった、良かった良かったって思ったときに、ギャビーンって稲妻が落ちてきたかのようにあることに気が付きました。

いや、チュウチュウは僕の身体の外から中に移動しただけで全体の重さ変わってないやん!

それは消化したからでしょう!とかメガネをちょこっと上げながら言いたい人もいるかもしれませんが、消化ってなんじゃ!身体いったいどうなってんじゃ!

そんなん言うならサングラスもアイポッドも時計も全部消化できれば無敵やんけ。

はっ!むかーし世界史の教科書とか英単語帳とかを必死で暗記したのは、頭の外にあったそれらを頭の中に移動させる作業だったのか。

そうか!そうやってどんどん頭や身体に必要なものを消化させていけば、何も持たずに綿毛みたいにふわふわ生きていけるやん。

身体はただの乗り物とかいう奴おるけど、正味どんだけ身体に便利な機能をインストールしていくかの勝負やん。身体が一番大事やん。将来火葬だけは遠慮しとこう。うん。

あれ?でもゴール前はなんもいらん、身体すらいらんような感覚やった気もする。

いったいわしはどうしたらいいんじゃ?

 

と、ここまで考えたところで自宅に着いてしまい、シャワー浴びたら全部流れてどうでもよくなってしまいました。

みなさん、走ってるときってほんとうにヒマなんです。

『五百羅漢図展』 村上隆

土曜日と日曜日、久しぶりにトキョーに行ってきました。

オリンピック招致のとき、白人のおじさんが大層勿体ぶりながら選んだ、あの「トキョー」です。

とはいっても、仕事の研修だったので、トキョーというかほとんどサイタマにある、とある大学に2日間缶詰にされて、やっと解放されたときには、日曜日の午後5時でした。

大学の周りはほとんど木だったし、宿泊したホテルの周りもほとんど西友だったし、ホテルの部屋なんてフロントから一歩プラス本気ジャンプくらいでたどり着く所にドアがあって、そのドアたるやトコロテンと見紛うほど貧相で、一晩中、中国人観光客と受付スタッフの爆笑トーキングが聞こえてくるから、ハイボール2缶とワンカップOZEKIのプレミアム(東京にはOZEKIのプレミアムがあった!さすがトキョー!)を飲んで寝てやったら、2日目の研修内容はほとんど頭に入ってきませんでした。

トキョーに行くからって、うちのショルダー・イン・クローゼットからいちばん可愛い服を見繕って、でもあんまりやる気MAX感が出てるとダッセーから靴はカジュアルなやつ選んだりしたのに、なんだトキョーなんて全然楽しくないじゃん!とか急に空しくなったので、まだ研修終わって5時だったから、渋谷じゃなくて、村上隆さんの『五百羅漢図展』がやっている六本木に向かったのでした。

地下鉄乗ったらまず人が近いのなんのって、ウチの左尻が左隣のボブマーリーみたいなやつの右尻に、ウチの右尻が、右隣のとってもカラフルなスパッツはいてサメみたいな女の左尻に触れてるってなもんで、この距離感であたいを保つの難しいわとか考えながら電車降りて、『グーニーズ』かい!っていうくらいエスカレーター登ってやっと地上に出たらビルが高いのなんのって、人が多いのなんのって、スゲーなおいトキョー、外国人ばっかりだし、こりゃもうあたいの知ってるニッポンじゃありゃしまへん、なんか街中がざわざわ動いてて、行先が決まってない人が大勢いて、あたいのおべべのことなんて誰も気にしてませんやんとか考えてたら、六本木ヒルズに着いて、ヒルズがデカいのなんのって、そんで展示やってる森美術館てぇやつはエレベーターに乗って行くらしくて、50階くらいびゅーんと上がったら宇宙船に乗り込むみたいな入り口になってて、こりゃおったまげトキョー!ってな感じで、村上隆さんの『五百羅漢図展』に入場したので、作品を見る前にお腹いっぱいアイムフルでした。

トキョーに住んでるシティーボーイたちならもっと展示を楽しめたんだろうけど、田舎者の僕にはトキョーのダイナミズムで心がざわついて、作品を落ち着いて楽しめませんでした。その作品とのエンカウンターはたった一度きりなのに、その時の状況とか心境に本当に左右されるなぁとつくづく思うのでした。

 

※ここからネタバレあり

 

作品の最後に村上さんからのメッセージがあって(それも作品になってたんだけど)、要約すると若いクリエーター、もっと死ぬ気でやれよベイビー的な感じのメッセージで、それを見てたら、むかーし学生時代に出会って、ちょっとだけ好きになった絵描きの女の子のことを思い出しました。

その子と一度だけ美術館に行ったんだけど、ゆっくり作品を見る僕とは違って、彼女は可愛くとがったあごに手を当てながらサラサラっと見て回るだけで、ホントにあっという間に見終ってしまって、なんも美術のこと知らんくせに長いことアホみたいな顔して見て回る僕を、出口のソファーでずっと待っていてくれたのでした。

それから数年して、突然彼女から「外国でクループ展することになったからこの文章英訳して」って連絡がきて、英訳したら、「DM出来たら送るね」って返事がきて、それきりDMこなくて、こうやってまた展示を見終ると、外で彼女が待っててくれてるんじゃないかなとかほのかに想うのでした。

節分の話

もうすぐ節分である。

僕が敬愛する年間行事のひとつだ。

クリスマスとか正月とか、あんなもんは正味、オコタにはまりながら、右手にスマホ、左手にミカンのぐうたら人間でも、プレゼントとか現金がノーリスクで降ってくる、悪しき行事だとも言える。

しかし、節分は違う。

異界から鬼と呼ばれる化け物が襲来し、死にものぐるいで戦って、得るものは歳の数のマメのみである。

コスパばかり気にするヤングジェネレーションズにはこの行事の秘めたる価値が少しも理解できないであろう。

ノー体罰、ノー朝練、ノー兵役、ノーハラスメント。

モンスターピアレンツや怒れない上司がはびこるこの国では、

どこまででもぬくぬくと生きていける。あーオコタ最高。

2チャンネルやツイッターを使えば、隠れて好きなことが言える。ヘイトスピーチ上等。

はっきり言ってこの国は、もはや恐怖を想像する力を鍛えるオケージョンが皆無なのだ。

そこで、節分である。

 

昨日の夕方の地方ニュースでやっていた、とある小学校の節分行事はマジ最高だった。

体育館に隔離された児童たちに、突然、2体の鬼が無慈悲なまでに襲いかかる。

泣き叫びながら逃げ回る子。

友達や先生の陰に隠れる子。

全てが嫌になってその場で泣き崩れる子。

マメを握りしめるだけで投げられない子。

投げてもハトに餌をやるみたいに遠慮気味にちょろりと投げる子。

ダルビッシュみたいに投げる子。

マメとか持たずに、鬼に向かって飛び蹴りする子。

(僕はたぶん、握りしめるだけの子だったな)

そんな中、笑いながら児童たちにマメを装填する先生。

(あなたたちがいちばん薄気味悪いぜ)

本当の恐怖を前にして、人はやっと、己の特性を知りうるのである。

 

終了後、カメラを向けられた児童たちは、泣き止むことができなくて、何を言っているか分からない始末。

「マジやばかった」

「怖かった。死ぬかと思った」

飛び蹴りしていたガキ大将的な奴は泣きながら、

「全然怖くなかった。うぐ。うぐ。勝てると思った」(お前最高だぞバカ野郎!)

そんな中で、すまし顔の男子、

「面白かった。鬼はたぶん○○先生だと思う」(お前が鬼だこの野郎!)

 

最近ほんまに怖いと思ったことありますかい?

腹の底から震え上がるくらい怖いと思ったこと。

ずーっとむかし、街でいちばんの不良グループにからまれたときも、

ちょっとむかし、社内で女の子と遊び倒していて、上司に呼び出されたときも、

ここさいきん、ふしだらなサイトから多額な請求を受けたときも、

大抵はお金で解決できるし、最悪の場合でも命までは獲られなから、

まあまあビビったくらいだった。

 

でも、節分だけは、半端じゃない。

 

昨日の節分ニュースを見て、昨年のパリ同時多発テロを思い出したのは僕だけかしらん。

DIYおじさんの話

職場にDIYおじさんがいる。

すでに還暦を過ぎた嘱託の職員さんで、通常業務がヒマなときは、切れた電球を取り替えたり、滑りの悪いドアの建付けを調節したりと、現役時代のヴェルディ北澤みたいにいつも忙しく職場内を動き回っている。

腰回りは、リーバイスの501ではなくクレ556が引っ掛けてあるそのおじさんは、先日も壊れた加湿器を発見すると、自ら直そうとして、さらっと感電して、「イテテ」と言いながらヒヨコみたいに飛び跳ねていた。

まさに、どうれ(D)、いっちょ(I)、やってみるか(Y)おじさんなのである。

昔はやんちゃでしたフレイバーぷんぷんで、外見は玉置浩二に似ていて、声や話し方は、ヒロミにそっくり。そんなDIYおじさんが昨日、昼休みに僕の机にやってきて、「あのさ、忙しいとこわりいんだけど、その、ラインっていうやつ? ちょっと教えてほしいんだわ、娘と孫が使っててさ、それでさ……」と日焼け顔を少し赤らめて言ってくるのである。

しょうもない表のセルの幅とかを広げたり縮めたりして遊んでいた僕は、そりゃもうキュンキュンしてしまって、目の前のパソコンなんてザンギエフお得意のスクリューパイルドラバ―でぶっ壊して、DIYおじさんとラインで遊ぼう!と思ったら、壊れたパソコンでまた感電するおじさんの姿が容易に想像できたので、パソコンから手を離して、「あっ、イイっすよ」って少しもずっきゅんしてなさそうに答えては見たものの、わたくしそう言えばガラケーユーザーで、ラインを指南できる可能性は皆無で、そしたら隣の机の、新卒で若さだけが取り柄の、職場では春雨しか食べていないのに小太りで、どうせ家帰った瞬間ドンタコスとか食べとるんやろが、ていう感じの女が、「ラインですか? アタシが教えますよ。さるたこさんって確かガラケーでしたよね。ぷぷぷ」とか言い出しやがって、はうー、携帯触るとき、カバンの中で隠しながら触ってたのに、ばれとったのかー、カバンの中でパカパカするの結構難儀やったのに、って心泣きしてたら、DIYおじさんが、「そうか? わりいな」とか言いながらさらに顔赤らめて、女の隣に行ったので、ああ、やっぱり若い方がいいんやなぁとか思いながら、またセルを縮めたり広めたり、今度は2つを1つにしたりしていたら、女がスタンプとかアカウントとか横文字ばかり並べやがって、おじさん、感電したときみたいにあわあわし出したので、おじさんの腰からクレ556を取って、よっぽど二人の間に吹きかけたろうと思ったときに、あっ!これって恋かもしらんって思ったのです。

人が恋に落ちるときってどんなんかんなんって考えますと、結局、TPOとGAPの織りなすシンフォニーとかかなとか思ったりもしますけど、そのGAPって、くそ真面目な人が、いきなり万引きしても、なんてこの人素敵なのかしらん、とはならないわけで、そのGAPって、ほんまによくわからないもんですが、たぶん、人生を楽しむ上で非常に大切なもので、結婚してからは、意図的に遠ざけているのか、最近とんと気にしてないなぁと。でも人に対してじゃなくても、モノとかコトに対しても、このGAPとの出会いって、たぶん、結婚とか出産とかした後でも、大事にせなあかんやろうなとか最近思うのでした。

『ビオレタ』 寺地はるな

寺地さんとの出会いは、以前わたしが応募した文学賞の最終候補に彼女が選ばれていて、そのお名前と作品名がなんだかわたしの心をバイブレートして、なんとなく覚えていて、そしたら数カ月後、別の新人賞でなんと寺地さんが受賞していて、しかも違う作品で、そんな彼女にわたしの心はまたバイブレートして、やっぱり獲る人は獲るんや、彼女は獲って、わたしは獲られへん、心はバイブレートしても、わたしの携帯(ガラケー)はちっともバイブレートせーへん、編集者さんはいったい何をしてはるんやろか、応募原稿にジッカの番号でも書いてしもたんやろか、そもそも、出版社に原稿届いてないんちゃうやろか、偶然、思春期の娘さんがいる郵便局員さんが運転する便に当たって、わたしの原稿を見るなり、は? 新人賞? なに夢みたいなこと言うとんねん、こちとらこれからマイナンバーやら、年賀状やら死ぬほど忙しい日々が続くのに、家に帰ると娘に、臭い、臭い、ちょー臭い、お父さんの息とか靴下とかなんでそんなに臭いん? お父さんの身体んなか血じゃなくてドブ流れてるんちゃうん、いったいどんな仕組みになってんの? とか言われる始末なのに、何が新人賞やねん! みたいなこと言って、腹いせにいろんなフリーペーパーとかが置かれてる、ストリートにある棚みたいなところにわたしの原稿を置き去りにされてしもたんちゃうやろか、いったいぜんたい寺地さんとわたしの作品にはどんだけ差があるんよ! え? 一度見たろ、こうなったら一度読んでみたろ。

というわけで彼女の第四回ポプラ社小説新人賞受賞作『ビオレタ』を手に取ったわけです。

映画でも音楽でも小説でも、なんでもデビュー作というのはそのアーティストにとって特別なもののはず。だってその作品で、何者でもない自分が何者かに変わるわけです。

なんだってデビュー作が最強です。

宇多田ヒカルさんの『Automatic』なんて最強です。あれ以来みんな受話器を七回目のベルで取るようになりました。

パート2はいつだってパート1には勝てないのです。『ホームアローン』でも無理でした。あの『バックトゥーザフューチャー』でさえ無理でした。

唯一成功したのは、ウーピーゴールドバーグ主演の『天使にラブソングを』です。あれはまさかの若かりしき頃のローリンヒルを起用するという裏技と、なんか天使みたいなファルセットをかましてくる可愛い唇の黒人青年がいたからです。

話が少しずれましたが、とにかくデビュー作がいつだって最強なんです。

そう考えるとこの『ビオレタ』には寺地さんの全てが詰まっているわけです。

 

注 ここからネタバレありです。

 

『ビオレタ』は、突然婚約者に別れを告げられた主人公が、雑貨店の店主に拾われて、新しい自分の居場所を見つけていくといったストーリーです。

失恋ゆうもんは本当に身勝手で、振る方は次が見えてるからいいものの、振られる方はほんまにいきなり谷底に突き落とされるようなもので、そりゃあ落ち込んだり、拗ねたりするのはしょうがないんですが、この主人公の妙(たえ)ちゃんの拗ねようといったらほんまに最悪で、もしこんな友人がいたら、とにかく酔わせて眠らせて押入れに閉じ込めておくしかないなと思うような主人公なんですが、読み進めるにつれて、なんだか応援したくなってしまうのです。駅伝とかでゼッケンが剥がれている選手を応援してしまうアレと一緒です。

妙ちゃんを筆頭に、寺地さんの書くキャラクターはほんまに人間味があふれていて、ツカサ伯父さんとか、桃子さんとか魅力あふれる脇役がグレートなタイミングで現れてきて、本当に上手いなぁと。

以前なにかの雑誌で有名な作家さんが、結局小説とは人間を描くことみたいなことを言ってましたが、ほんまにその通りやなぁと。

寺地さんほんまにやりますわ。あっぱれ。寺地さん129点! わたし4点!

印象的なセリフもありました。

拗ねまくる妙ちゃんにお父さんが言ったセリフ。

「でも妙、強いっていうのは悩んだり迷ったりしないことじゃないよ。それはただの鈍感な人ですよ」

「強い」は「弱い」の対極じゃないよ。自分の弱さから目を逸らさないのが強いってことだよ。

拗ねてゆれゆれの妙ちゃんには、周りの人が「揺るぎない人」に映ります。

なんでみんなそんなに強いのか……と。

でも本当はその「揺るぎない人」も実はゆれゆれの連続で、でも立ち止まったときに周りのせいにするんじゃなくて、自分にベクトルを向け続けられる人なわけで。

寺地さんの本を読んで、賞を受賞できないことを、編集者さんや郵便局員さんのせいにしていた自分を押入れに閉じ込めたくなりました。

寺地さん、次回作も期待しております。デビュー作、軽く越えちゃってくださいね。

恋愛について

先日、とある新聞の人生相談のコーナーに、

「男にふられて立ち直れない。本気の恋だった。どうしたら次に進めるだろうか」というような相談が載っていた。

相談者も、おそらくこれまでに誰かの同じ相談に乗った経験があるんじゃなかろうかと、少しだけ笑いを堪えながら読んだ。

相談に対するどこかの大学教授さんの回答は、

「無理に忘れる必要はありません。恋愛中は自分のことを最もよく知ることができます。必ず次にすすめる日がくるので、それまでは焦らず自分のことを見つめなおしてください」といった模範的なものだった。

 

ご多分に漏れず、わたしも同じような悩みを持った時期がある。

新聞に投稿することは思いもよらなかったけど。

失恋して死ぬほど寂しかったわたしは、そのときはじめて嘘をついて、身近にいた女性と関係を持った。

何に対して嘘をついたのか。よくわからない。

自分に? 相手に? それとも社会とか常識とかそういうものに?

 

相手の女性は、別れ際に決まって「ありがとう」という女性だった。

わたしはそれが何と言うか、たまらなくて、どんどん抜け出せなくなっていた。 

自分の中にこんなにもだらしない自分がいたなんて…。

いや、これがほんとうの自分なのかもしれない。

というか、なんだかこれまでの恋愛より、自由で動物的な気もする。

これがほんとうの恋愛なのかも。

 

恋愛という流れのなかで、わたしという自分はゆらゆら、ふらふら、たゆたって、すきという言葉とか、セックスっていう行為とか、信頼とか、男と女とか、これまでカチカチに形が見えていたつもりのものが、彼女の「ありがとう」を聞くたびに、トロトロと溶けていった。

 

ふと気がつくと周りの大人にえらい怒鳴られて、相手の女性には、ぐーで殴られた。

女性にぐーで殴られると、やり返せないから、石とかが当たったのに似ていた。

 

大学教授さんの回答は、半分は正解で、半分は間違っていると思う。

恋愛とは自分をよく知る行為ではなく、人間をよく知る行為なんだと思う。