SEE YOU IN TOKYO

 

昨年の夏頃にハイパーメディアクリエイターの妻が、今度は「アパレルデザイナーになりたい!」って言い出して、ほうほう、こいつは相当なファンキーガールだなぁと思っていたら、コンクリートジャングルTOKYOの専門学校の入試を受けてきて、パスしやがって、今年の春からスカイスクレイパーTOKYOに住むことになりました。おーこわ。

現在は、見渡す限り山ばかりで、冬になるとロシアくらい寒くなる、とある地方で暮らしているので、生まれて初めてトラフィックジャムTOKYOに住むのは、答えでもない 本当でもない 信じてるのは 胸のドキドキ 胸のドキドキだけっていう感じです。

 

僕はこの人生の行き先を、妻の意見で決めてきました。

今回の決断も周りのピーポーたちは、「あら素敵、理解ある旦那さんだね」とか褒めちぎってくれていますが、心のなかでは、おいおいダンナ大丈夫か、イイナリダンナーかよってつぶやいてるんじゃねえかと思います。

しかし、僕と妻はもう10年以上の付き合いがあり、妻のケイパビリティ―は僕が一番理解しているのです。妻のコミュ力、行動力、ルックス、リーダー性は、僕のそれと比べると雲泥の差であり、妻こそがヒラリーダフ、じゃなくてヒラリークリントンでも破れなかったグラスシーリングを粉々に粉砕してくれるんじゃないか、僕はそう信じているのです。おーこわ。

 

僕のこんな生き方を母親はしっかりと見抜いていて、「アンタはお母さんと一緒や、私も何も考えずにお父さんについて生きてきたらこんなんなってもたわ」と、携帯ショップのイケメンから無理やり契約させられたタブレット端末でゲームをやりながら言ってのけるのでした。

母親が幸せかどうか、僕にはよく分かりませんが、積もり積もった何十年分の愚痴を、ツムツムに重ねて、ポコポコと心地良い音を響かせて、うひょうひょ笑いながらそれらを消している姿は、昨今の鹿島アントラーズくらいしたたかだなって、僕なんかは憧れてしまうのです。

 

僕はガラケーなのでツムツムはやりませんが、妻について生きていく感想を、こんなふうに言葉で積み上げていければいいなと思うのです。

SEE YOU IN TOKYO

 

 

 

2016年最悪の夜

 

12月のとある夜、久しぶりに大人を怒らせた。

 

知り合いに紹介された飲み会に、仕事の都合で30分ほど遅れて参加したら、知らない医者の人が参加していて、その医者は本を出したり、講演会とかやったりしている結構有名な医者らしく、その場には全部で7人くらい参加者がいたんだけど、みんなその医者と、医者の旧友である、とある福祉事業所の経営者を一生懸命持ち上げて、二人に気持ちよく喋らせている、そんな飲み会だった。

 

終盤、今年7月の相模原で起きた障害者殺傷事件の話題になって、みんなが障害者についてどう考えているかみたいな議論になったとき、その医者が「僕らもみんな障害者みたいなものだよ」と言った。

もちろん、みんなそれぞれ出来ないことやこだわりを抱えて生きているみたいな文脈の発言だったと思うんだけど、僕はちょっとその言い方にイラっとして、みんなが障害者っていう表現はおかしくて、みんなに個性とか役割があるっていうことでしょう、みたいな感じで医者に反論した。

医者は「役割って例えばどんなの?」って聞いてきて、

「例えば、あなたが医者になったみたいに」って答えたら、

医者は「いや、僕は僕の努力で医者になったんだけど」って突っかかってきて、

「でも、医者になれる環境があったんじゃないんですか」って言っちゃって、

医者は「環境って?」ってさらに聞いてきて、

「親が医者だったとか、経済的に余裕があったりとか」って答えたら、

医者は「僕は、親父が小さい頃に死んで、かなり貧しい環境で育ったんだよね。そういう医者に対する偏見は本当に腹が立つんだよね。堪忍袋の緒が切れたよ。帰るね」と吐き捨てるように言って席を立ち、店から出ていった。

旧友の経営者がすぐに医者を追いかけていったんだけど、僕はあまりに突然のことで、席に座ったまま、ただただ茫然としていた。

結局医者は戻らず、最悪の雰囲気のまま、飲み会は解散になった。

 

僕はその医者の過去を知らなかったし、医者はおそらく僕よりも20くらい年上だったので、僕の発言がいくらか配慮を欠いていたとしても、僕が謝罪する余地も与えずに席を立ったのは大人げないと思うのだが、とにかく他人がずっと大切にしてきたことに対して、想像力を欠いた発言をしたことに、心からの謝罪をしたい。ほんまにすんません。

 

言葉は想像力をパッケージするためにあるんじゃなくて、解き放つためにあるはずだ。

少なくとも僕はそんなふうに言葉と付き合っていきたい。

 

障害者、医者、そんな言葉で、たったひとりの相手を閉じ込める。

言葉の力を信じていたつもりなのに、全然真摯に向き合えていないじゃないか。

 

言葉をあなどるなよ。でも、恐れちゃいけない。

 

2017年はさらに深く、言葉と共に生きようと思います。

 

 

表現すること

 

先日、友人の紹介でアートイベントの打ち上げに参加した。

 

とある村の大きなアートイベントで、現代アーティストを村に招待し、三か月ほど滞在させ、地域住民とのワークショップや作品制作、展示を行ってもらう、いわゆる地域おこし事業のイベントだった。

友人がそのコーディネーター役をやっていて、アーティストたちの滞在最終日の打ち上げに、「いい刺激になるから」と僕を呼んでくれたのだった。

 

打ち上げ会場である、古民家を改築した交流スペースにいたアーティストは、日本人と韓国人とオランダ人とイタリア人の4人だった。日本人以外は全て女性だった。

4人ともそれぞれにジャンルが違っていて、映像、テキスタイル、絵画、インスタレーション。美術に疎い僕には全然分からない単語が、しかも英語で飛び交っていた。

 

作品制作やワークショップに参加した村民や、運営スタッフ、僕みたいに全然関係ない者など、会場には30人くらいの人が集まっていて、4人のアーティストの周りに群がっていた。

年齢も職業も雑多な集まりだったが、皆アート好きなのが共通項で、お洒落な髪形や服装の人が多かった。

人見知りの僕はとにかく酒をあおって、ナッツをボリボリやりながら、場違いな自分を会場の雰囲気になじませていた。

 

酔いが回り始めると、それまでは音楽のように耳を通り抜けていたアーティストたちの英語が意味を持ち始めた。

英語が上手く話せる人が周りにいないらしく、オランダ人とイタリア人のアーティストは二人だけで会話をしている様子だった。

 

「素晴しい作品でした」と僕は二人に声を掛けた。

しばらく月並みなやり取りが続いた後、オランダ人が「あなたも何か表現するの?」と聞いてきた。

既に十分酔っぱらっていたので、「小説を書いている」と言ってみた。

その途端、二人の目は輝いて、どんなテーマを書いている? 尊敬する作家は誰だ? 小説は出版されているのか? など逆に質問攻めになった。

「コンペに何度か応募しているだけで、出版の予定はないんだ」と僕は苦笑しながら答えると、オランダ人は目を輝かせたまま「ハルキムラカミやバナナヨシモトの作品は素晴らしかった」と言い、イタリア人は「あなたはまだ出版していないだけ、出版したらぜひ教えて欲しい」と微笑みながら言った。

 

なかなか認めてもらえないと焦っている僕の心を、二人はもちろん見透かしていて、彼女達にとっては、僕もハルキムラカミやバナナヨシモトと同じ、日本人の小説を書いている人なんだなぁと、アルコールの力と久しぶりに英語を話す高揚もあって、ずいぶんと楽しい勘違いをさせてもらった。

 

気持ちの大きくなった僕は、少し気難しそうに見える日本人作家にも声を掛けることにした。

その男性は、木炭などを使って対象を表現する作家だった。

今回描いた村の美しい紅葉風景も、やはりモノクロだった。

何故モノクロにこだわるのか彼に聞いたところ、色があると本当に見たい、感じたいものが見えにくくなるとのことだった。

「あなたの本当に見たいもの、感じたいものって、結局何なんですか?」と僕は聞いた。

彼は日本酒の入ったグラスを机に置き、腕組し、少し考えた後で、

「さぁ、何なんでしょうね」と言った。

 

「じゃあ、それを見つけるために、表現し続けてるってことですか?」

すると彼は遠くを見るような目をして、

「おこがましいかもしれませんが、僕はそれ自体を描き続けているつもりですが……」と吐き出すように言った。

 

彼とのやり取りのおかげで、僕は自分の小説がなぜ認められないか、分かったような気がした。

 

 

『ミナトホテルの裏庭には』 寺地はるな

 

寺地さんとの出会いは、以前私が応募した文学賞の……って、

私の寺地さんに対する、サウナ室のバスマット交換くらい一方的な片思いの物語は、彼女の前作『ビオレタ』のレビューのときに書いたので、興味のある方はそちらをご覧ください↓

『ビオレタ』 寺地はるな - 人生30過ぎてからでしょう。

 

『ミナトホテルの裏庭には』は寺地さんの二作目。二作目が表現者にとってどれほど大切であるかということも、彼女のデビュー作『ビオレタ』のレビューのときに書いたので、興味のある方はそちらをご覧ください↓

『ビオレタ』 寺地はるな - 人生30過ぎてからでしょう。

 

 

 

※ここからネタバレあります

 

 

『ミナトホテルの裏庭には』、タイトルからもう読みたくなりますよね。

ルパン三世のオープニングみたいに、ミ、ナ、ト、ホ、テ、ル、ダダダダダドンガラガッシャーンみたいに見せられた日にはたまらないですよね。

 

それで裏庭には、いったい全体何があるって言いますの? 宝の地図? 金塊? それとも死体?……とか勝手にザワザワしながら本を手に取ったら、あらまカワイイ装丁に心が『ポワポワ』してしまいました。

 

この『ポワポワ』というのは実は寺地さんが作品の序盤で、女性を形容する際に使った言葉なんですが、これまで女性のことを『ポワポワ』と表現した小説家はいただろうか、いやいない(いたらすんません)、このポワポワを目にした途端、僕はワクワクして、そしてすぐに身構えました。

 

寺地さん、ちょけてる。こりゃもっとちょけてくるな。

 

その後は寺地さんがいつちょけてくるかが気になって、さらには、ちょける寺地さんとそれをいさめる編集者さんのやり取りが勝手に頭の中で始まってしまい、話の筋が全然入って来ませんでした。

 

というのは嘘で、私もちょけずに感想を書きます。(主人公、芯くんの心理描写で所々笑っちゃいました。次作ではもっとちょけて欲しいです)

 

 

物語は、芯くんの視点の一部と陽子さん(ミナトホテルのオーナー)の視点の二部(またはエピローグ?)に分かれていますが、僕は陽子さんの物語にぐっときました。

甥っ子の篤彦くんへの想いが、やさしくて、つらくて、かなしくて、文章の一行一行につよさを感じました。陽子さんが篤彦くんの前で涙を流せてよかったなぁとしみじみ思いました。

子を持つ母親の気持ちは、男の私には絶対に味わえなくて、すごく羨ましくて、いーってなるんですが、こうして小説でちょっぴり味わうことができて幸せだなぁと。

 

一番お気に入りのキャラは芯くんのおじいさんです。

陽子さんは彼のことを『やさしいけれども、厳しい人』と表現しています。

『冷淡』な芯くんに、ほんまの優しさとは何たるかを叩き込むため、祖父は芯くんをミナトホテルの裏庭に誘ったんじゃないのかなぁ。

 

そうなるとミナトホテルの裏庭には、ベンチプレスとかエアロバイクがあって、裏庭は秘密のフィットネスクラブだったとも解釈できますね。

できません。はい。すいません。

 

寺地さん素敵な二作目ありがとうございました! 次作も楽しみしております!

 

『何者』 朝井リョウ

 

三浦大輔さんが監督した映画がとても素晴らしかったので、朝井リョウさんの原作小説もすぐに読みました。

 

「あなた、何者?」

 

おそらくだれもが避けて通りたい質問じゃないでしょうか?

この質問から逃れるために、みんな天気予報を確認したり、美味しいものを食べたり、こじゃれた服を着たり、面白いドラマを観たりして、話題を増やしているんじゃないかと思います。

 

数年前、僕にも降りかかった就活ですが、本当に地獄でした。

自分のことを自分で営業するなんて、シャイボーイの僕にとっては、鏡の中の自分とずっとにらめっこをしているようなものでした。

グループディスカッションや集団面接のときは、きまって頭がボーっとして、とあるお笑い番組の大好きなシーンに、ひらひらと逃避していました。

 

キャー!

どっ、どうしましたか?

この人、変なんです……

何だ君は?

何だチミはってか? そうです。私が変なおじさんです。変なおじさんだから、変なおじさん♪

 

高校時代、男の子は仲間内で夢を語り合うもので。

僕はお笑い芸人になるって言ってたし、Tはオシャレさんだから自分のショップを持ちたいって言っていたし、Rは勉強ができたから弁護士になりたいって言ってたし、Jは真面目だから学校の先生になりたいって言ってたし、母親だけに育てられたYは「なりたいもんなんてなんもねぇ」って言ってた。

 

数年後、Jは念願の先生になった。

Jだけが何者かになった? じゃあTやRやYはいったい今何なの?

もしかするとTやRは何者かになるまでの途中なのかもしれない。

じゃあYは死ぬまで何者にもなれないの?

 

数年前、僕は久しぶりにTと会って、芸人になることはあきらめて、次は小説家を目指すと宣言した。

「芸人がだめなら小説家か……お前らしいな」

お前らしいって……少しムッとしたけど、たしかに僕らしいと思った。

 

『何者』には人によってそれぞれ解釈があると思うけど、僕にとってのそれは夢の自分だ。

だから僕は、まだ何者にもなれていない。

 

村上春樹がノーベル文学賞をとる前に

 

もうすぐノーベル文学賞の発表です。

この時期になると何かと話題になる春樹さん。

本好きが集まって、どの作家が好きかって話になると、なぜか名前を挙げにくい春樹さん。

スウェーデンの会議室でもそんなふうに名前を挙げづらいのかしらん。

 

もし賞をとってしまったら、さらに春樹さんの話をしづらくなりそうなので、今のうちに。

 

僕の一番好きな作家は村上春樹さんです。

一番好きな作品は『海辺のカフカ』です。

 

海辺のカフカ』を読んだのは大学3年生で、就活する前に海外にでも行っとこうと思ってニューヨークに一か月住んで、帰国した頃でした。

春樹さんの二冊で1500円の小説は、バイトで貯めた100万を全部つぎ込んだ僕のニューヨークの一か月間を、軽く超えてきました。小説は事実より奇なり……かも。

 

春樹さんの物語の主人公はまさに僕のことだと思いました。

これまでどんな物語の主人公にも感情移入しづらかったのに、これは僕のことを書いていると心から思いました。そして就活なんて放っておいて彼の作品を全部読み漁りました。

僕は友達に村上春樹って知ってるかと聞いてみました。みんな知っていました。

そしてみんな僕と同じように自分のことを書いていると言うのです。

僕は絶望しました。

自分のことを特別だと思っていたのに、僕は圧倒的に多数派だったのです。

それと同時に、希望を抱きました。

世界中の人が同じかけらを持っているんだと。

 

それからたくさん小説を読んできたけど、いまだに『海辺のカフカ』より面白い小説には出会っていません。

ただ、自分で小説を書いているときは、小説を読んでいるときよりも面白い瞬間があります。

村上春樹さんは、僕を読む側から書く側に変えてくれた人。

恩人と言えるように頑張ります。

 

青山七恵から柴崎友香、からの宇多田ヒカル

 

青山七恵さんの『かけら』という小説を読んでいたら、僕だってちょっとした小説が書けるんじゃないかと勘違いしてしまった。

それは青山さんの小説が、ほんとうに何なら今週末にでも経験出来そうなほんとにほんとに平凡な日常のことを書いているからだ。

むかしむかし、映画好きの親父に、周防正行監督の『shall we ダンス?』を観せられて、ドヤ顔されて、「コレの良さが分からんうちはまだまだ子どもやの。誰も死なんし、ピストルも爆発も出で来んけど、こんなに面白いんや」(多分実際の言葉はもっとダサい)みたいなことを言われて、その時はこいつダンサーと浮気でもしたいんちゃうかとか疑って、やだお父さん薄汚ーいって心の中で思春期爆発したけど、今なら親父の言ったことの意味がよく分かるし、少しだけ自分で小説を書くようになって、誰も死なんし、ピストルも爆弾も出て来んのに、人がお金と時間を使ってくれるモノを作る難しさも、少しだけ分かる。

 

文庫本の『かけら』では柴崎友香さんが解説をしていて、青山さんの小説はカメラみたいで、切り取った現実に少しだけ違和感を与えると書いていた。柴崎さんも同じように日常を書く作家で、芥川賞受賞作の『春の庭』は近所にある気になる家のことを書いた作品だけど、読みながら僕もむかし友達と近所の空家(後で分かったが八百屋の倉庫だった)に忍び込んで、置いてあったジュースを勝手に飲んでいたら警察に捕まったなぁとか思い出した。僕の補導された過去はどうでもいいが、柴崎さんの文章に導かれて、忘れていた記憶がありありとよみがえり、また少し自分の現実が色濃くなった。

 

二人の手にかかると日常が作品になってしまう。多分二人にとって『小説』というのは動詞であって、フォトグラファーがカメラで撮影するみたいに、何かで対象を『小説する』ことが出来る能力を持った人が小説家なのかもしれない。じゃあ何で『小説する』のか。文章か、目か、作家性か。多分その全部が必要で、それ以外にも必要なものがまだまだたくさんあるのかもしれない。

 

そんなことを考えながらもやもやしていたら、ハイパーメディアクリエーターの妻が宇多田ヒカルちゃんの8年ぶりのアルバムとモンゴル800の新アルバムを買って帰ってきた。

ちなみに妻はモンゴル800が大好きで、こないだ一緒にライブに行ったら、終了後、出待ちするとか言い出して、出てきたチンピラみたいな清作に「清作さんハグしてー!」とか言って抱きついていた。ドンウォーリービーハッピー。

 

今僕の目の前にヒカルちゃんが現れたら、僕は多分、ど緊張して、胸が高鳴って、その鼓動を利用してtravelingくらい歌い出してしまうだろう。

ヒカルちゃんは僕にとって、ほぼ神か天使だ。

映画好きの親父の死に目には、ヒカルちゃんがいる時代の世界に呼んでくれてありがとうと言うだろう。『shall we ダンス?』もよかったよ。

そのくらい僕にとってヒカルちゃんは最強だ。

 

ヒカルちゃんの新アルバム『ファントーム』については、これからいろんなひげもじゃのおじさんたちがいろいろ語るだろうから僕が何か言う必要はないかもしれないけど、一言だけ言わせてちょうだい。

一曲目の『道』。私の心の中にあなたがいる ってサビに入ってくるところ!なんじゃこれ!ズボンの腰のひもが片方しか出てないこと発見して、なんとか爪使ってくにゃくにゃもう片方出してきて、両方持ってぐーんて引っ張ったときくらいの気持ちいいサウンドやん!ヒカルちゃんの声、ほとんど楽器やん!

てな感じで語り出したら取り乱しちゃうんですが、ヒカルちゃんの才能の前には、残念だけど、人の一生くらいの努力では全然歯が立たないのです。

青山さんと柴崎さんが退屈な日常を美しい作品にする魔法使いなら、ヒカルちゃんは気まぐれに私たちの日常に降りてきて、今まで味わったこともないスイートなアメちゃんをそれって投げつけてくる、アンプレディクタブルキャンディースローエンジェルなのです。

 

もし僕が将来有名な小説家になってヒカルちゃんと対談することがあれば、その時には、カメラが回る前に、「ヒカルちゃんハグしてー!」って抱きつこうと思います。