『虹色バス』 宇多田ヒカル

三度の飯より宇多田ヒカルちゃんが好きなんだけれども、『虹色バス』という曲は、盆と正月と誕生日がいっぺんに来たような曲である。

 

『WILD LIFE』というライブで彼女はこの曲を最後の曲にセッティングしていて、そのライブ後に活動を休止した彼女にとって、おそらくこの曲は、宇多田ヒカル第1章のラストメッセージじゃないのかしらと僕なんかは勝手に想像している。

 

この歌は、「Everybody feels same」と何度も繰り返しながら、みーんな同じこと感じてるんだよって歌う。

「雨に打たれて靴の中までびしょ濡れ」とか、「遠足前夜祭必ず寝不足」とか、前半はあるあるを並べて、あなたの嫌いなアイツだって同じことを感じているんだよって歌う。

 

しかしながら、後半は一転して、「誰もいない世界へ私を連れて行って」とヒカルちゃんは歌う。しかも演歌みたいに同じ歌詞を二回も。

 

これはいったいどういう風の吹きまわしかと考えるんだけれども、結局誰も私のことなんて分かってくれない、多様性なんて嘘八百だせ!というメッセージなのか、はたまたみんな同じことを感じている上で、誰もいない世界へ連れて行って欲しいと願っているという意味なのか、もしそうだとしたら、相当救い難い世界だなぁなんて僕なんかは思ったりするんだけれども、ヒカルちゃんの真意はどうなんだろう。

 

その後、8年間のお休みを経てカムバックした彼女は、『ファントーム』を世に出した。

一曲目の『道』では、「どんなことをして誰といても心はあなたと共にある」と歌う。

 

誰もいない世界ってどんな世界なんだろうか。

自分のことを知っている人が一人もいない世界じゃなくて、本当に誰もいない世界。

その世界にはどんな感情があり、どんな音楽があり、どんな言葉があるのだろうか。

この世界で、その世界に一番近い存在は多分ヒカルちゃんだと思うから、僕は彼女の新曲が出たりなんかするとウシシシシって思うのだ。

 

 

『ファミリー・コンポ』と私

 

僕の好きなマンガの一つに北条司さんの『ファミリー・コンポ』という作品があります。

 

ちょいとあらすじを紹介すると……

主人公の大学生、雅彦(男)は、とある家に居候することになったんですが、その家族の夫婦は性別が逆転していて、雅彦はいろんなドタバタに巻き込まれるわけですが、そんな中で、同居している二人の子ども、紫苑に、少しずつ心惹かれていくというお話です。

 紫苑はとにかく美しい顔面の持ち主で、その日によって居心地の良いジェンダーを選んで生活しています。学校と部活は女、バイトは男、みたいな感じです。

性別が逆転している両親の影響で、紫苑は性や恋愛に対して無頓着になっていて、雅彦はそんな紫苑に振り回され続けます。しばらくして紫苑のことを好きだと自覚し始めるんですが、もし紫苑が男だったら俺はオカマじゃないか!……みたいな感じでモンモンするわけです。

物語は終始雅彦の視点で描かれているので、紫苑の葛藤(あるとすればですが……)を読者は知ることが出来ません。紫苑はいつもサバサバとしていて、性別も不明なので、あまり人間味を感じないキャラクターになっています。

最終話、雅彦は「男でも女でも、どっちだって構わない。紫苑が好きだ」と告白します。読者は紫苑の口から、告白の返事と、やっと本当の性別が語られることを期待しますが、北条先生はどちらも明かすことなく、急に物語を終わらせてしまいます。

 

僕はこのマンガを高校生のときに初めて読んだのですが、それ以来ずっと、このラストシーンが心の奥に張りついています。

男と女に対して僕が悩んでいるもの、追求したいもののヒントが、雅彦が乗り越えたもののなかにあるように思えるのです。

もし、紫苑が女性で、雅彦のことを受け入れるエンディングだったなら、こんなに僕の心のなかにとどまることはなかったでしょう。

 

ここまで、『ファミリー・コンポ』への僕の向き合い方を長々書いた上で、

最近僕が男と女について考えていることを二つばかり書こうと思います。

 

一つ目は、男である、女である、この人が好きであるって、ぜんぶ努力と覚悟なんだなって思うことです。

たとえば僕が合コンで、白石麻衣ちゃんみたいな人に出会ったらすぐ好きになると思います。なぜなら、肌が柔らかくて白いし、髪がサラサラでキラキラだし、なんだかスイーツみたいな匂いしてくるし、おっぱいあるし、お尻あるし、つるつるした手足の爪あるし、綺麗な声だし、ジルスチュアートとかのフワッフワした服着てるし、とにかくあっという間に好きになると思います。

でもこれってようはぜんぶひっくるめると、女ってことなんですよね。つまりは、僕は白石麻衣ちゃんが女だから好きなんです。そしていくら白石麻衣ちゃんだって、ワークマンの服着て、ろくでなしブルース読みながら炬燵でケツかきながらポテチばっかり食ってたら3カ月で女じゃなくなると思います。

雅彦が、男でも女でも関係なく紫苑が好きだと言ったのは、まさに努力と覚悟だと思うんですよね。

雅彦は紫苑のいったい何を好きになったんでしょうね。

 

二つ目は、この世界には僕の分身の女性がいるんじゃないかという淡い希望のお話です。

今から6年ほど前に素敵な女性に出会いました。

その人は絵描きで、可愛い顔をしていて、真っ直ぐでウソが苦手で、一発でたまらなく好きだなって思ったんですが、手を握ってみたいとか、頭と肩を合わせて一緒に一つのクレープを突っつき合いたいとか、そんなことは全然感じなくて、これまでの可愛い女の子に対する好きとは全く違うなって感じたことを覚えています。

それは友達という感情ともまた違くて、よくよく考えて、言葉にしてみると、もし僕が女の子だったらこの人みたいだろうなって感情がいちばんしっくりきたのです。

 

その人とはもう疎遠になってしまったんですが、クレープの女の子じゃなくて、その人と二人でずっと遠くまで歩いてみたらどんな世界が見えたんだろうなとか時々眠れない夜とかに思い耽ってみるのでした。

 

 

 

女の強かさ

 

妻の高校時代の友達が遊びにきて、ネイルについて熱く語ってくれたんだけれども、女子力情報に目がない私は耳をダンボにして聞いたんだけれども、女子は結局のところテンションを上げるためにネイルをするんだそうだ。

しかもその女がやるネイルは、一回一万円近くかかるらしく、しかもそれは三週間くらいしかもたないらしくて、だからこそそれを美しく撮影してインスタグラムなるもにアップするそうなのだ。

そして多分爪以外にも女にはオシャレするところがたくさんあって、男からすると除毛さえしてくれれば、ネイルとかアクセサリーとかほとんどどうでもいいので、恐らくもうそこらへんのオシャレは、対男というよりも女同士の戦いなんだろうなと思うのだ。

丸の内とかには本当に俗に言うイイ女がいっぱいいて、カラダ全身美しいんだけれども、そういう女は、そこにかけられるお金と時間が私にはあるんですよって言いながら歩いているのかもしれない。

でも、そこらへんの意図は男には皆目伝わらないので、他の女に向けてなのか、それか純粋に自分のテンションを上げるためなのか、とにかく目の前の一日を楽しく美しく生きるためなのか、なんだかわからないんだけど、そういう女の強かさが私にはたまらないのである。

 

それでは、男は自分のテンションを上げるために何をやるのか‥‥それは多分好きなものを収集することなのかしらと思う。

例えば私であれば、好きな本をしこたま集めて、自分のルールで本棚に並べて、それを眺めているだけで、アレキサンダー大王みたいな気分になるのだ。

そう考えると、男は獲る側で、女は獲られる側なのかもしれないけど、女からしたら獲られた後も命は続くわけだから、とりあえずネイルとかガーデニングとか御朱印集めとかするんだろうなと思うと、やはりそういった女の強かさに、私は憧れてしまうのである。

 

 

社会に戻る前に

 

社会に戻る前に、その目的をあらためてここに書き記す。

いったん戻ってしまうと、なぜ戻ったのかを忘れてしまうことが往々にしてあるからだ。

 

私は優れた小説を書くために社会に戻る。

優れた小説とは、現実社会に新たな宇宙をこしらえるような小説だ。

そして、私が戻る社会とは人であり、人との対決である。

対決というのは、単に男でいう殴り合い、女でいう髪の引っ張り合いではなく、金と時間のやりとりである。

ではなぜ男が髪の引っ張り合いではなくて、殴り合いであるかというと、五指で掴めるほどの頭髪を持つ男の数が、女のそれよりも圧倒的に少ないからである。短髪の男二人が、親指と人差し指のみで互いの髪を掴み合い、引っ張り合っていても、それは対決ではなく、どこか異国の挨拶であろうとみなされる。そして、女が殴り合いではない理由、こちらはとても簡単で、大切なネイルがあるため硬く拳を握られないからである。

と、これまでの五行は、本筋とは全く関係のない話で、読者の時間への冒涜であり、つまりは読者に対する私からの対決である。

 

この三年間、私は現実社会を拒絶し、先人の書いた小説社会と対決してきた。

しかしこの対決はワンウェイな対決であり、相手の金と時間には一向に影響を及ぼすことができない。

このやり方でも優れた小説を書ける輩もいるだろう。しかし、私にそれは叶わなかった。

この期間、私は現実社会を絶つため、スマホからあえてガラケーに機種を変え、「SNSやってる?」と対決を挑んでくる輩を、「ガラケーやからやってないねん」とはねのけていた。皆私のことを電話ボックス君と呼んでいただろう。

仕事中は定時で上がることだけを考え、残りの時間を小説を読むことと書くことだけに費やした。しかし、ワンウェイ対決だけで生まれた私の小説は、それを書いた私自身のように、弱っちく、深みのない代物だった。

この事実は私を幾らか苦しめたが、また現実社会に戻るきっかけを与えてくれることとなった。

 

私は社会に戻る。

身の毛もよだつ速さで打てるようになったガラケーは、スマホに戻した。

ハロー、フリック。ハロー、スワイプアンドタップ。

優れた小説を書くため、私は社会に戻る。

 

Now, I am in Tokyo.

 

ハイパーメディアクリエイターだった妻の進学で、コンクリート・ジャングルTOKYOに引っ越してきて、もうすぐ一か月になります。

 

大人の事情で都心からずいぶん離れたアパートに越したので、全然コンジャン(コンクリート・ジャングル)感がありません。でも念願のスイカを手に入れて、塩ふって食べたわけじゃなくて、改札にピッとして、通過できたときには妻とハイタッチしそうになりました。改札の次は妻にピッ。

 

引っ越して間もなく、妻は学校が始まり大忙しの日々ですが、僕の方は就職活動以外することがないので、家のまわりを走りまくってたら、三日目で、マダムに道を聞かれて、丁寧にお答えすることができるようになりました。

 

妻は帰宅すると、毎晩その日の出来事を目をキラッキラさせながら報告してきやがります。それをほうほうと聞いているだけでは、さすがに忍びないので、僕だって日中に何かして、新しい話題や情報を妻に提供しなければならないのですが、先日は、「この部屋の天井、意外と高くて、椅子の上に立っても全然頭当たらないんだぜ」って言ってやると、「そっ、そうなんや……」と妻は視線をそらしたので、「なんならやって見せようか?」と得意気に言うと、「いっ、いいわ……そうや、今日もたくさん宿題あるんやった」と部屋を出て行ってしまいました。

世の中の奥さん。「ねぇねぇ、そっちはどんな一日やった?」って、失業中の旦那に聞くのは、「詰めるなら小指か薬指どっちがええねん?」って聞くようなもんですよ。絶対にやめましょうね。

 

このまま仕事が決まらなければ、僕はやっとタフな小説を書けるようになるか、東京2020にランナーとして仕上がってしまうか、はたまた自室の掃除だけでは飽き足らず、共用部分まで掃除し始めて、管理会社に就職してしまうかのどれかだと思うんですが、そんなゆったりと構えていられる根性や度胸やお金も無いので、すぐに安定した仕事に就くことでしょう。

 

しかし東京という街は、すんごい街ですね。

たとえば新宿に行くと、人がめちゃくちゃいて、こんなに人がいるのに、みんな違う顔しているっていう事実がほんとうにすごい。

満員電車でぎゅうぎゅうになってると、まわりの人と自分の境目がわからなくなってやばい。

みんな違うのにみんな同じという感じが、東京ではバリバリ伝わってくるのです。

 

はたして僕はこの街を好きになれるのでしょうか。

そのためには、まず仕事をして、ちょっとした恋をして、魔法を無くして空を飛べなくならないといけないのかもしれません。

 

その街に溶け込むというのは、そう簡単にはいきません。

歳を重ねればなおさらです。

 

それでも、僕は明日が愛おしくて仕方がないのです。

 

32年と6カ月生きてようやくわかったこと

 

32年と6カ月生きてようやくわかったことは、

僕が天才じゃなかったということです。

 

お恥ずかしい限りですが、32年と6カ月間、僕は自分のことを天才だと思っていました。

 

スラダン読んで流川になれると思ってバスケやったし、

東大に入れると思って受験勉強したし、

ダウンタウンになれると思って漫才やったし、

村上春樹になれると思って小説書いているけど、

 

結局のところ僕は、なんてことないオーディナリーピーポーでした。

 

いわゆる大人のみなさんはもっと早い段階でそのことに気付いていらっしゃるのか、

はたまたそれを気付いた段階で大人になるのか、僕にはよくわかりませんが、僕は何度か経験してきた挫折のなかで、『自分には何もない』ということを認めた時点で、本当に何もない人間になってしまうと信じていました。

 

でもそれは間違いだとやっと気が付きました。

僕にはとことん何もなかった。

 

しかし、その事実を受け入れると、寂しい半面、とても気が楽になりました。

もう他人はもちろん、自分にも期待する必要がなくなったのです。

 

こうなったら残りの人生、自分が楽しく生きられるよう、僕の関わる社会を僕が生きやすいようにアジャストするだけでいいのです。

 

たとえば、僕は見た目はオッサン、心は乙女みたいな人間なので、薄汚い男どもがいる業界には、さよならバイバイして、女性が多い、福祉とか保育の仕事でお給料をいただけばいいのです。

そしてなるたけ定時で帰って、掃除洗濯をして、料理をして、奥さんの帰りを待てばいいのです。

そうです。僕は家事好きなのです。

 

それで、もし少しだけ欲張ってもいいお金と時間があるのなら、好きな小説を読み、気持ちの悪い小説を好き勝手に書き続ければいいのです。

 

 

僕のいちばん好きな映画、ウーピー・ゴールドバーグ主演の『天使にラブソングを』にこんなセリフが出てきます。

 

Oh, expect from yourself and you respect yourself.

You control your destiny.

 

自分に期待すると、自分を尊敬できる。

運命は変えられる。

 

本当の人生は、自分のいちばん好きを否定するところから始まるのかもしれません。

 

夢みる若者たちへ

 

『努力にまさる天才なし』

という言葉がありますが、それは真っ赤な嘘っぱちです。

 

みんなスタートラインは一緒、みんな一日は24時間とか言いますが、それも真っ赤な嘘です。

 

そんなことないよ!

人はみんな平等、夢は努力すれば必ず叶うよ! 

と、信じているあなた……

 

あなたは『障害者』と呼ばれる人たちを知っていますか?

私は仕事で障害者と生活しているので、彼、彼女たちのことを一般の人よりも理解しているつもりなのですが、彼、彼女たちは、この日本という社会で生きる上で、本当に苦労しているのです。

 

例えば、あなたが、くそ暑い日に、ペットボトルの水を欲しがってスーパーに行ったとします。

『健常者』と呼ばれるあなたは、3分もあれば、入店して、棚からペットボトルを取って、レジに持って行って、会計を済ませて、喉を潤すことが出来ますが、車椅子で生活している人だったらどうでしょう? くそ暑い日に喉を潤すまでに、どれだけのハードルを乗り越えなければならないでしょうか?

 

みんな平等に24時間与えられているといいますが、世の中には服を着るのに1時間以上かかる人が実際にいるんです。

もちろん時間はお金で買えますが、障害者は、まず自力でお金を稼ぐことが難しいんです。

(国から与えられているお金だけでは、障害者は、健常者には勝てないんです。私はここで人間の幸福の話をしているわけではありません。現在の日本という社会で生きていく現実の話をしています)

 

つまり、『障害者』と呼ばれる人たちは本当に苦労しているんです。

そして、その人たちは、自分からその運命を選んだわけでもなく、生まれながらにして、その人生を強いられることになるんです(後天的に障害を持った人を別にして)

 

 

それでは、その逆もあることを、なぜ想像できないでしょうか?

 

生まれながらに障害を持つ人もいれば、圧倒的な才能を持つ人も、いるに決まってるじゃないですか。

(障害と才能というのは、私はほぼ同義語だと思っています。生まれたその社会、時代において、それは障害にも、才能にもなり得るのだと私は思います)

 

知的障害があって一生唸り声だけをあげて暮らす人が生まれるのであれば、天使みたいな声で一生歌を歌い続ける人が生まれてあたりまえなんです。

 

たとえば、宇多田ヒカルとか、松本人志とか、村上春樹とか、そんな天才に、凡人の一生、80年くらいの努力で勝てると思ったら大間違いなんです。

 

でも、それでも、

そんな現実を理解して、

その上で、若者には、夢をみて欲しい。

 

天才にはできなくて、凡人にできる表現方法は、もがき、そして苦しむ姿だけなんだと思います。