『素顔の岡村隆史』本多正識

 

僕は岡村さんに憧れてお笑い芸人を目指していた時期がある。

お笑いの文化なんてこれっぽっちもない田舎の都道府県から、高校卒業後、ひとり大阪に出てNSCに入学した。ダウンタウンさんが1期生、ナインティナインさんが9期生、僕は今人気の和牛やかまいたちと同じ26期生。『素顔の岡村隆史』の著者、本多先生の授業も、もちろん受けたことがある。

岡村さんは本多先生に見出され、お笑いの世界で天下を取り、今もなお第一線でテレビの中にいる。

僕はというとネタ見せで本多先生に何を言われたのかも覚えていないし、あれだけ天下を取る、岡村さんになると意気込んで地元を出たにもかかわらず、すぐに夢をあきらめてしまい、今は何とも表現しづらい気持ちで和牛やかまいたちの活躍をテレビの外で見守っている。

もちろん岡村さんのケースが超少数派で、僕みたいな奴らはテレビの外にいっぱいいて、ましてや芸人になりたくても挑戦する勇気や環境がなかった人たちはたぶんもっともっとたくさんいるはずだ。

 

一応僕にだって一度だけ漫才の舞台でウケた経験がある。

これまで30年以上生きてきた中で、あの3分間が一番ワクワクした。

僕が面白いと思ったことを体と言葉で表現して、それに合わせて目の前のお客さんが笑う。たったそれだけなんだけど、あの3分間はめちゃくちゃに感動して細胞レベルで震えた。

岡村さんはそんなことを22年間めちゃイケでやったし、チビノリダーもやったし、さんまさんと今夜も眠れないもやったし、タモリさんと料理作ったし、たけしさんに車壊されたし、鶴瓶さんと志村さんとボーリングやってるし、何でか、モーニング娘SMAPEXILEに交じって舞台の上で踊ってたし。これまでいったいどれだけ震えたんやろって思う。それでもテレビの外では人間不信や面白いことに対する重圧や責任感で真っ白になってしまった岡村さん。

夢を叶えること、成功することで見える美しい景色、醜い現実はやっぱりその山に登ってみないと分からんのやろうと思う。

今後僕がもう一度岡村さんを目指してお笑いをやることはないし、職場のみんなをごっつ笑わしたろうと意気込んで会社に行くこともない。

僕がお笑いをやっていた過去もこうして時々思い出したり、人に話したりしないと本当はなかったんじゃないかと思えるくらい遠くに感じる。

それでも岡村さんのおかげで僕はあの3分間を経験出来たし、一つのことには計り知れないほどのレイヤーがあることを知った。

今しんどい人に世の中もっと面白いんやでって、本当は笑いで伝えたかったけど、それはこれからも岡村さんに任せて、僕は僕のやり方で周りに笑顔を増やしていこうと思うのです。

 

 

今年のホーフー

 

さてさて2019年。

みなさまいかがお過ごしでしょうか?

数日前のこと。朝起きると激しい頭痛が。いつもの二日酔いによるものだと判断し、普段通り10キロのランニングを行う。その後ぽわぽわしてきて、どうれ検温してみるや39度越え、天城越え。すぐさま病院に直行したら、休日だったこともあり89人待ち。一時間半ほど待って、鼻に棒を突っ込まれ、インフル確定。

現在では仕事に復帰し、ランニングも再開してよいだろうと、先ほど7キロほど走ってシャワーを浴び、ぽわぽわしながらこのブログを書いています。

 

2019年最初のブログということで今年のホーフーみたいなことを書きたいのですが、ここ数年は何だか暗い気持ちの日々が続いていて、元気と勇気ってどうやったら出るんだろうとか悩んで、「知らんがな」が口癖の先輩に相談してみたら、「そういう暗い気持ちも自分の大切な感情の一つやからそのまま付き合えばいいんちゃう」とかめちゃくちゃイイ事言われて、真に受けたら3年くらい暗いので、今度は僕と同じくらい暗い奴探したろう思って、探したらエヴァ碇シンジ君くらいで、アイツは周りにミサトさんとアスカみたいな底抜けに明るい奴おるのにあれだけの暗さ維持できるの半端ないなとか思って、もうちょっと暗いままでもええわとほっといたらもう5年くらい暗いままなので、今年は明るく生きることを目標とします。

年始に読んだ、大好きな作家の柴崎友香さんの言葉をここで引用。

 

「毎日がこんなにおもしろいしこんなにきれいやのに、それを何もないってどうして感じるのかな」

 

私はこの言葉を聞いてえらく感動したのです。

言葉だけなら誰でも言えるんですが、ちゃんと柴崎さんはそれを小説で描いてくれてはる。

私はこの言葉を胸に2019年を生きてくおつもりです。

みなさまにとって素敵な年になりますように。

 

 

 

『Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018』宇多田ヒカル

 

宇多田ヒカルさん、以下はヒカルちゃんと呼ばせていただくが、

彼女は現代で日本国民にもっともその歌を聴かれた女性アーティストである。

 

あなたにとっても、クリーニング屋のおばちゃんにとっても、いい波のってる女子高校生たちにとっても、それぞれのヒカルちゃんがいて、僕にとってのヒカルちゃんは、まさに神である。

昨今の若者たちは神を多用しやがるが、僕にとっての神はヒカルちゃんだけ、唯一神

彼女がなぜ神なのか、それは「赤は止まれ」くらい簡単で、1998129日に発売された「Automatic/time will tell」の時点で、完全に完璧だからである。

うそこけとお思いになる方は一度聴いてみるがいい。歌声もサウンドも全て完成されている。七回目のベルまで聴かなくても「な」で十分である。

つまり彼女は、我々人間が永遠と繰り返す、葛藤からの成長というシークエンスそのものが欠落している。ゆえに神である。

 

ここで彼女が活動を休止する2010年までの作品の歌詞をいくつか引用する。

 

 今の言い訳じゃ自分さえごまかせないtime will tell

 約束はしないで 未来に保証は無い方がいいB&C

 悩みなんて一つの通過点 大きすぎるブレスレットのように するり

 (Wait & see~リスク~)

 風にまたぎ月へ登り 僕の席は君の隣り ふいに我に返りクラリ 春の夜の夢のごと   しtraveling

 誰もいない世界に私を連れていって(虹色バス)

 

まさに神である。

 

デビューして12年、2010129日、横浜アリーナの公演でヒカルちゃんは活動を休止する。

神であることを止め、人間に戻る。その後、母親の死や自身の出産を経て、彼女はどんどん人間になる。

だから、2016年に『花束を君に』で復活した彼女は、人間でも神でもない、得体の知れない存在となって私たちの前に現れた。

男性の僕として一番しっくりくる表現は、ヒカルちゃんは母になっていたのだった。

 

再びここで2016年以降の作品の歌詞を引用する。

 

 世界中が雨の日も 君の笑顔は僕の太陽だったよ花束を君に

 愛してる、愛してる それ以外は余談の域よForevermore

 飯食って 笑って 寝ようPlay a love song

 ぱくぱく パクチーパクチーの唄)

 

まさに母である。

 

そしてデビューして丁度20年目の2018129日、幕張メッセで行われた『Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018』の千秋楽の会場に僕はいた。

ツアーTシャツとフーディ(いつからこの国の人間はパーカーをフーディと呼ぶようになったのか)をお買い求め、妻とどっちがどちらを着るかで、髪の引っ張り合い喧嘩をしてから会場に入るとなんと席は、前から4列目のど真ん中。日頃の行いの良さがものを言うねほんとに。

僕にとってヒカルちゃんは、テレビとスマホとスピーカーとイヤホンの中にいる存在で、この時僕はまだ彼女が本当にこの世界に存在しているのか疑念を抱いていた。

誰もいないステージを見つめながら、彼女の歌に支えられた僕の20年間を振り返った。

ステージをバックに写真を撮って欲しいとガチアゲギャル二人組に言われたので写真を撮った。

先程からトイレに行って戻ってこない妻のことを思った。僕がフーディを着たかったのに「いくらか寒い」と言い出しやがった。体温の話を持ち出されたら言い返せないじゃないか。

次は礼儀正しいカップルにせがまれて写真を撮った。またヒカルちゃんとの20年を振り返った。また写真を撮った。20年を振り返った。妻が戻ってきて「少し熱い」と言い出した。今度は妻が写真を撮った。そして照明が落ちた。

ヒカルちゃん降臨。

いた。本当にいた。

一曲目は『あなた』だった。

 

そこからの二時間半、僕はずっとヒカルちゃんを見つめた。

彼女の髪、目、口、顎、肩、胸、腕、手、指、腰、お尻、腿、膝、脚、つま先はステージの形のせいで見えなかったけど、とにかく全部見た。

そして彼女の声を聴いた。

生の彼女がどうだったかと問われると、それは人間の女性だったんだけど、人間の女性だけだったら、同じ時間同じ場所に何万人もの人を呼べないから、それができる何かを持った人間の女性だったとしか言いようがない。

20年目の『Automatic』をヒカルちゃんと一緒に歌った。

神々しいのに親しみやすくてやさしくて、でも寂しそうにも切なそうにも見えた。

やっぱりヒカルちゃんいいなって思った。

 

このライブに行くためにここ数カ月を何とか生き延びてきた僕にとって、最後の『Goodbye Happiness』は絶望の始まりだった。

歌い終わるとヒカルちゃんはステージからいなくなり、またスマホとかの中に戻っていた。

あぁ終わってしまった。

しかし絶望の中でも笑うしかないのだ。

そうだ金沢にでも行ってのどぐろでも食べよう。

金粉パックする妻を見ればまた笑えるかもしれないのだ。

 

 

『ボヘミアンラプソディ』

話題の『ボヘミアンラプソディ』を観てきました。

吉祥寺の映画館で鑑賞しましたが、ファーストデイだったこともあり、会場は満席。

応援上映の回でもないのに、映画が終わると会場から自然と拍手が起こりました。

これは初めての経験で、ぐっときました。

クイーンのことは全然知らなくて、楽曲もCMやドラマの主題歌でいくつか聴いたことある程度で、リードボーカルのフレディマーキュリーのこともセクシャルマイノリティだったことくらいしか知りませんでした。

そんな僕でも開始30分くらいで涙が出始め、後半は嗚咽を漏らさないようこらえるのに必死でした。

何故こんなに感動したんでしょうか。

それはフレディが抱き続けていた葛藤、たぶんフレディは自分の好きな格好をして、とにかく周りの人を楽しませたい、それだけを望んでいるのに、自分の気持ち、これがその人のソウルとかロックなんだと思うんですが、それが自分の身体、さらにその周りの社会と全然噛み合わない。それに対する怒りや悲しみを、歌や音楽でぶち壊そうと、激しく、美しく、声を張り上げるその姿が、ライブ会場や映画館に来ている一人一人が持っている大なり小なりのソウルやロックに響いて、重なって、ひとつになって、その大きな波みたいなものが、クイーンの音楽に合わせて、ぐわんぐわんしたから、みんな涙を流したんだと思います。

最後の20分くらいはみんながフレディで、みんながクイーンで、空高くびゅーんと飛んでいく心地がしました。

ライブの時だけは、フレディも、辛いことも悲しいことも全部忘れて、とびっきり美しい自分にぴったりと収まっていられたのかもしれません。

『おっさんずラブ』を真剣に考える

 

やっと話題の『おっさんずラブ』を観ました。

とっても面白かったんですが、この作品が何故こんなにも話題になったのか、

性別は男性、性自認は女性、恋愛対象は女性(いまのところ)、既婚者(子どもなし)の私が真剣にこの作品について考えてみたいと思います。

 

以下ネタバレあります。

 

 

 

まずもって簡単な説明。

田中圭が演じる春田創一(33、男)は、不動産会社のうだつの上がらない営業社員。脱いだ靴下を洗濯機に入れられない人間。

しかし、春田は圧倒的に可愛い。この可愛さというのは性別の概念を超えて、女性はもちろん、男性でさえ可愛いと思ってしまう、いわゆる猫とか赤ちゃんとかおばあちゃんとか陽だまり的な可愛さ。

とにかく田中圭が可愛い。恐らくこの作品が話題になった理由は田中圭が可愛い、それに尽きるのだが、それで終わってしまうとまだ300文字くらいしか書いていないし、1,000文字くらい書くと見えてくる言葉とかもあるからもう少し続けてみる。

 

この作品のヒロインは三人いて、吉田鋼太郎演じる、春田の上司、黒澤武蔵(55、男)、林遣都演じる、春田の後輩、牧凌太(25、男)、そして内田理央演じる、春田の幼なじみ、荒井ちず(27、女)。

黒澤と牧は同性愛者であり、春田の可愛さの虜になっている。

ちずは異性愛者であり、こちらも春田に虜だが、幼なじみという関係性が邪魔をして素直になれていない。

この作品のメインテーマは「同性愛」なのだが、このタブーとも言えるテーマで、作品が地上波で高い評価を得た理由は、前述したように圧倒的に田中圭が可愛いことと、彼以外の登場人物が、同性愛に対して摩訶不思議に寛容的なところ(誰も、え!男同士ですよ!とはつっこまない、逆にその思考が残っているのは春田のみ)、そしてコメディ要素を多分に残しながら(これは吉田鋼太郎の怪演のおかげ)、現実世界よりも多様性がある『おっさんずラブの世界』をある程度真剣に創り上げているからである。

 

ここである程度真剣にと言ったのは、本気でやるなら最終話の結婚式に春田の母親を存在させるべきだし、もっと春田と牧、春田と黒澤の性描写を描かなければならない。

しかしもちろん春田の母親に同性結婚を納得させるまでの過程を、異性愛者の視聴者、同性愛者の視聴者にも納得させるように描いたり、春田と牧や黒澤の性描写を異性愛のそれくらいちゃんと描いたら、そりゃもうエンタメではなくなってしまう。

 

それでもこの作品にはすんばらしいところがいくつかあった。

まず、春田とちずの性描写を描かなったところ。

たぶんそれを描いてしまったら、全部が台無しになっていただろう。

春田と牧のキスシーンはあるのに、春田とちずのそれはない。

春田が最終的にちずとくっつけばいいのになって、心の中で期待している自分がいた。

結局異性愛をスタンダードに考えている自分がいて、本当に悲しい気持ちになった。

それに気づかされてしまった。

 

そして、この作品の本当の主役は、林遣都演じる、牧凌太だと私は思う。

黒澤のキャラ設定は少しフィクショナル過ぎたが、牧みたいな同性愛者の男性はたくさんいるだろうなと思った。

牧が春田の社会的な幸せを願って身を引くシーンは本当に胸が痛くなった。心がぎゅっと掴まれた。

この葛藤を地上波で、しかもエンタメ描いたところが、この作品のハイライトだと思う。

 

この牧の想いを、同性愛者の視聴者はどんなふうに観たんだろう。

異性愛者の視聴者はどんなふうに観たんだろう。

同性愛者は異性愛者がどんなふうに観たんだろうと想像したんだろう。

異性愛者は同性愛者がどんなふうに観たんだろうと想像したんだろう。

 

いくら想像しても当事者の気持ちは当事者にしかわからないんだけど、

受け手に価値のある想像をさせること、

それこそがフィクションやエンタメが存在する意義なんじゃないかなと私は思うのです。

 

こんなふうに、世界にたった一人の自分の、いい感情も、隠したくなるような感情も、えぐってくるような作品が、もっと世の中のたくさんの人の目に触れることを願います。

 

そして私自身が、結局は、そんな作品を創造したいのだ。

 

もうちょっと待っててね。

 

本音

 

宇多田ヒカル様のライブの日まで

とにかくクソみたいな一日を繰り返す

 

その一日が惜しい奴と

チラシみたいに一日を捨てる奴

どっちが贅沢で幸せか

 

担任だった物理の教師の話を思い出す

朝起きて学校に行くとか会社に行くとか

それこそが物理だって

何で自分の足がそこに向くのか

考えるのが物理だって

 

たぶん詰まる所は金とセックスのためだろう

 

お洒落して美味しいもの食べてセックスする

それに尽きる

東京では質の高いそれができる

だからみんな東京に集まる

 

満員電車の中に並んでるいろんな顔

みんながみんな

いいねって言われる人生が欲しいと書いてある

とことんクソったれどもの集まり

もちろん僕もその中心で同じ顔をしている

 

とりあえず朝になれば

結婚とか出産とか保険とか年金とか住居とか年収とか昇進とか介護とか

とにかくややこしいことを

なんならすっかり忘れさせてくれるような

美味しいご飯、素敵な異性、激しいセックス

そんなクソみたいなことを期待しながら

酒が抜けきっていない頭で

満員電車に乗って嫌々会社に向かう

それ以上でもそれ以下でもない

 

って書いてはみたものの

本当は全くそんなことは全然考えていなくて

ただひたすらに

宇多田ヒカル様のライブの日まで

やってくる一日一日を

ひらひらと捨てる

ライブの後のことは考えないように

マニュアル通りに機械的

ひらひらと捨てるのみである

 

 

 

女になりたい

 

男はみんな女になりたいの。

いや、ちょっと違うか。

男だって子どもを産みたいの。

 

でもこればっかりは、東大卒でも、年収1000万以上でも、全国大会出場できるくらいの身体能力があっても、はるな愛さんみたいな突き抜けたトランスジェンダーでも、子どもを産むことは、男の身体だとできないの。

 

だからモチベーションの高い男は、企業したり、僕の好きな分野だったら、小説書いたりとか、世代を超えるコンテンツを遺そうと必死に努力するわけ。

 

要は、つまり、全ての男は女に憧れているってこと。

 

じゃあ女は?

女は男についてどう思ってるの?

憧れたりするのかな。

なってみたいとか思うのかな。

 

男の僕には分からないから。

でもそれが面白いから、想像する。

 

とりあえず。

男はみんな女に憧れてるんだ。