恐怖のモデルカット

 

先日、モデルカットなるものを経験した。

街で偶然イケメン美容師に声を掛けられて、可愛いからお店のホームページの写真に使わせて欲しいということで、キラッキラにしてもらった……というわけではなく、妻の知り合いの美容師の卵がスタイリストとしてデビューするためには事前に生身の人間を50人切りしなければならないらしく、その女は、まず妻の髪を切り刻み、震える彼女の頭を鷲掴みにしながら「髪の生えている奴なら誰でもいいからあと3人連れてこい」と脅したらしく、髪も心もボロボロになって帰宅した妻は、泣きながら僕に「どうかお前さんも生贄になってくれないか」と懇願してきた……つまりはそういうモデルカットだった。

 

そもそも僕は美容室が嫌いだ。何故なら昔から自分の性別に違和感があるため、髪型とか服装とかは基本的に放っておいて欲しいのだが、美容室に行くと、必ず薄汚い男ばかりが載った雑誌を渡され、その中から希望のスタイルを選ばなくてはならないからだ。

僕は一応ページの中に井川遥知花くららを探してみるが、見つかるのは大体、所ジョージジローラモで、僕は渋々井川遥を諦めてジローラモになるのだった。

そしてその惨劇を目の前に備え付けられたオーロラビジョンならぬ大きな鏡でずっと目に焼き付けなければならない。雑誌を読めばいいではないかと思うかもしれないが、カットが始まると、僕と外界を鮮明に繋ぐメガネはいつもスタイリストによって奪われてしまうのだ。

 

こんなふうに僕にとって散髪という行為はいつだって拷問みたいなものなのだが、今回のそれはさらにスリリングなものだった。何故なら妻を瀕死の状態にしたその美容師の卵は恐ろしくダサい女だったのである。

僕がこれまで暮らしていた世界では美容師という人種はそれなりに美しさにこだわりを持っているはずだったが、目の前に現れた女は、ひとクラスに必ず2人くらいいる、オタク系の女で、雑誌はスウィートやノンノはおろか、ミョウジョウすら読まず、公募ガイドくらいしか手に取ったことが無さそうだった。女は誤って3回くらい踏んだことがありそうな銀縁メガネの位置を気にしながら(鼻の高さがほとんど無いからだ)、「今日、どんな感じにしますか?」とぬかしてきた。右手でいっちょまえにハサミを構えていたが、ガーデニング女子の方がまだマシだと思った。

女は僕の髪をこねくり回しながら「かなりのびてますね。バッサリやっちゃいます?」と言ってきた。「あっさり殺っちゃいます?」と聞こえた僕は身の危険を感じ、雑誌を持ち上げ、とっさに「これでお願いします!」と言って指差した先には所ジョージが単車に跨っていた。「所ジョージですか? カラーリングは別途料金を頂くことになりますけど?」「あっカラーは結構です」女の中にカラーリングという語彙があったことがわかって少しほっとした。

 

どこかで、人間は視覚からの情報が9割と耳にしたので、僕は目を閉じた。

そして安らかな眠りが僕を包み込んでくれることを心から期待した。

女の指が僕の髪に絡みつき、ハサミを入れる気配がする。

「ジャキ、ジャキ、邪気」

女がハサミを使っている間、僕は砂利を食しているような錯覚に陥った。

このままだと死んでしまう。流れを変えるべきだ。変えよう。流れは自分で引き寄せるもんだって、スラダンの宮城も言ってたさ。

僕は勇気を振り絞って核心から突く。

「何で美容師になろうと思ったんですか?」

「え?」

「だから、何で美容師になろうと思ったんですか?」

「え?」

僕は、30年以上愛用し、しかも他人よりも少し上手に扱えているんじゃないかと自惚れていた日本語の語彙や文法表現を真っ向から疑った。

「すいません。切るか話すかどっちかしかできないんですよ……。話します?」

「いえ、切ってください」

 

目を開けると、所ジョージでもジローラモでもない、シメジメオとでも呼ばれそうなキノコ頭の男が椅子に腰かけていた。

「そろそろ終わりますか?」

「え?」シメジメオは耳を疑った。

そろそろ終わりますか? そう言ったのは、ほかならぬ卵女だった。

まさか俺が終わりを決めるのか。何て斬新なカットなんだ。

ジメオは言葉を失い、茫然と鏡を見つめながら己の毒の有無について考えをめぐらせた。

「ちょっと先輩に見てもらいますね」といって卵女は鏡から消えた。鏡の中にはジメオだけが取り残された。

しばらくすると、その店のトップスタイリストがジメオのかさの下あたりから顔を出した。

「こんにちは。お疲れ様でした。少し失礼しますね」

トップスタイリストは僕の知っている美しさにこだわりを持っているたぐいの美容師の女性で、僕の頭にそっと触れると、櫛を使って髪の長さや量を確認した。

隣では卵女が、己でこしらえたキノコの前衛アート作品をどや顔で眺めている。

トップスタイリストは「ちょっと見ててね」と卵女に呟き、ハサミを入れ始めた。

「シャキ、シャキ、ウキ、ウキ」

なんて心地の良い音だろう。ハサミが入る度に心が軽くなるようだった。

もし、僕が独り身であれば、すぐさまこのトップスタイリストに求婚していたであろう。

シメジメオはあっという間に黒髪の所ジョージに変身した。

しかし彼は本当は、井川遥になりたかったのである。

 

帰り際、今にもこぼれ落ちそうな涙を堪えながら僕はもう一度卵女に尋ねた。

「何で……でも何で……いったい何で美容師になろうと思ったんですか?」

「え? 今の時代、手に職っすよ」

 

おそらくこのブログがアップされる頃には、卵女はスタイリストにかえっているかもしれない。

考え様によっては彼女こそが、全ての常識を覆し、僕を井川遥に仕立て上げることができる、僕が待ち望んだ、唯一のスタイリストなのかもしれない……ってそんなわけないか。