青山七恵から柴崎友香、からの宇多田ヒカル

 

青山七恵さんの『かけら』という小説を読んでいたら、僕だってちょっとした小説が書けるんじゃないかと勘違いしてしまった。

それは青山さんの小説が、ほんとうに何なら今週末にでも経験出来そうなほんとにほんとに平凡な日常のことを書いているからだ。

むかしむかし、映画好きの親父に、周防正行監督の『shall we ダンス?』を観せられて、ドヤ顔されて、「コレの良さが分からんうちはまだまだ子どもやの。誰も死なんし、ピストルも爆発も出で来んけど、こんなに面白いんや」(多分実際の言葉はもっとダサい)みたいなことを言われて、その時はこいつダンサーと浮気でもしたいんちゃうかとか疑って、やだお父さん薄汚ーいって心の中で思春期爆発したけど、今なら親父の言ったことの意味がよく分かるし、少しだけ自分で小説を書くようになって、誰も死なんし、ピストルも爆弾も出て来んのに、人がお金と時間を使ってくれるモノを作る難しさも、少しだけ分かる。

 

文庫本の『かけら』では柴崎友香さんが解説をしていて、青山さんの小説はカメラみたいで、切り取った現実に少しだけ違和感を与えると書いていた。柴崎さんも同じように日常を書く作家で、芥川賞受賞作の『春の庭』は近所にある気になる家のことを書いた作品だけど、読みながら僕もむかし友達と近所の空家(後で分かったが八百屋の倉庫だった)に忍び込んで、置いてあったジュースを勝手に飲んでいたら警察に捕まったなぁとか思い出した。僕の補導された過去はどうでもいいが、柴崎さんの文章に導かれて、忘れていた記憶がありありとよみがえり、また少し自分の現実が色濃くなった。

 

二人の手にかかると日常が作品になってしまう。多分二人にとって『小説』というのは動詞であって、フォトグラファーがカメラで撮影するみたいに、何かで対象を『小説する』ことが出来る能力を持った人が小説家なのかもしれない。じゃあ何で『小説する』のか。文章か、目か、作家性か。多分その全部が必要で、それ以外にも必要なものがまだまだたくさんあるのかもしれない。

 

そんなことを考えながらもやもやしていたら、ハイパーメディアクリエーターの妻が宇多田ヒカルちゃんの8年ぶりのアルバムとモンゴル800の新アルバムを買って帰ってきた。

ちなみに妻はモンゴル800が大好きで、こないだ一緒にライブに行ったら、終了後、出待ちするとか言い出して、出てきたチンピラみたいな清作に「清作さんハグしてー!」とか言って抱きついていた。ドンウォーリービーハッピー。

 

今僕の目の前にヒカルちゃんが現れたら、僕は多分、ど緊張して、胸が高鳴って、その鼓動を利用してtravelingくらい歌い出してしまうだろう。

ヒカルちゃんは僕にとって、ほぼ神か天使だ。

映画好きの親父の死に目には、ヒカルちゃんがいる時代の世界に呼んでくれてありがとうと言うだろう。『shall we ダンス?』もよかったよ。

そのくらい僕にとってヒカルちゃんは最強だ。

 

ヒカルちゃんの新アルバム『ファントーム』については、これからいろんなひげもじゃのおじさんたちがいろいろ語るだろうから僕が何か言う必要はないかもしれないけど、一言だけ言わせてちょうだい。

一曲目の『道』。私の心の中にあなたがいる ってサビに入ってくるところ!なんじゃこれ!ズボンの腰のひもが片方しか出てないこと発見して、なんとか爪使ってくにゃくにゃもう片方出してきて、両方持ってぐーんて引っ張ったときくらいの気持ちいいサウンドやん!ヒカルちゃんの声、ほとんど楽器やん!

てな感じで語り出したら取り乱しちゃうんですが、ヒカルちゃんの才能の前には、残念だけど、人の一生くらいの努力では全然歯が立たないのです。

青山さんと柴崎さんが退屈な日常を美しい作品にする魔法使いなら、ヒカルちゃんは気まぐれに私たちの日常に降りてきて、今まで味わったこともないスイートなアメちゃんをそれって投げつけてくる、アンプレディクタブルキャンディースローエンジェルなのです。

 

もし僕が将来有名な小説家になってヒカルちゃんと対談することがあれば、その時には、カメラが回る前に、「ヒカルちゃんハグしてー!」って抱きつこうと思います。