表現すること

 

先日、友人の紹介でアートイベントの打ち上げに参加した。

 

とある村の大きなアートイベントで、現代アーティストを村に招待し、三か月ほど滞在させ、地域住民とのワークショップや作品制作、展示を行ってもらう、いわゆる地域おこし事業のイベントだった。

友人がそのコーディネーター役をやっていて、アーティストたちの滞在最終日の打ち上げに、「いい刺激になるから」と僕を呼んでくれたのだった。

 

打ち上げ会場である、古民家を改築した交流スペースにいたアーティストは、日本人と韓国人とオランダ人とイタリア人の4人だった。日本人以外は全て女性だった。

4人ともそれぞれにジャンルが違っていて、映像、テキスタイル、絵画、インスタレーション。美術に疎い僕には全然分からない単語が、しかも英語で飛び交っていた。

 

作品制作やワークショップに参加した村民や、運営スタッフ、僕みたいに全然関係ない者など、会場には30人くらいの人が集まっていて、4人のアーティストの周りに群がっていた。

年齢も職業も雑多な集まりだったが、皆アート好きなのが共通項で、お洒落な髪形や服装の人が多かった。

人見知りの僕はとにかく酒をあおって、ナッツをボリボリやりながら、場違いな自分を会場の雰囲気になじませていた。

 

酔いが回り始めると、それまでは音楽のように耳を通り抜けていたアーティストたちの英語が意味を持ち始めた。

英語が上手く話せる人が周りにいないらしく、オランダ人とイタリア人のアーティストは二人だけで会話をしている様子だった。

 

「素晴しい作品でした」と僕は二人に声を掛けた。

しばらく月並みなやり取りが続いた後、オランダ人が「あなたも何か表現するの?」と聞いてきた。

既に十分酔っぱらっていたので、「小説を書いている」と言ってみた。

その途端、二人の目は輝いて、どんなテーマを書いている? 尊敬する作家は誰だ? 小説は出版されているのか? など逆に質問攻めになった。

「コンペに何度か応募しているだけで、出版の予定はないんだ」と僕は苦笑しながら答えると、オランダ人は目を輝かせたまま「ハルキムラカミやバナナヨシモトの作品は素晴らしかった」と言い、イタリア人は「あなたはまだ出版していないだけ、出版したらぜひ教えて欲しい」と微笑みながら言った。

 

なかなか認めてもらえないと焦っている僕の心を、二人はもちろん見透かしていて、彼女達にとっては、僕もハルキムラカミやバナナヨシモトと同じ、日本人の小説を書いている人なんだなぁと、アルコールの力と久しぶりに英語を話す高揚もあって、ずいぶんと楽しい勘違いをさせてもらった。

 

気持ちの大きくなった僕は、少し気難しそうに見える日本人作家にも声を掛けることにした。

その男性は、木炭などを使って対象を表現する作家だった。

今回描いた村の美しい紅葉風景も、やはりモノクロだった。

何故モノクロにこだわるのか彼に聞いたところ、色があると本当に見たい、感じたいものが見えにくくなるとのことだった。

「あなたの本当に見たいもの、感じたいものって、結局何なんですか?」と僕は聞いた。

彼は日本酒の入ったグラスを机に置き、腕組し、少し考えた後で、

「さぁ、何なんでしょうね」と言った。

 

「じゃあ、それを見つけるために、表現し続けてるってことですか?」

すると彼は遠くを見るような目をして、

「おこがましいかもしれませんが、僕はそれ自体を描き続けているつもりですが……」と吐き出すように言った。

 

彼とのやり取りのおかげで、僕は自分の小説がなぜ認められないか、分かったような気がした。