『推し、燃ゆ』 宇佐見りん
宇佐見さんの推しが燃えた話を読んで、私自身の推しの話もしたくなった。
宇佐見さんの推しの話の主人公あかりは学校も家族もバイトもなにひとつうまくいかない。
いろいろなかたちで現れてくる社会に対して、自分をうまく合わせることができない。
それでも推しだけには自分をぴったりと合わせることができる。
それはもちろん推しはアイドルという偶像であり、推しはあかりを否定しないからである。
推しとあかりの間にはステージと客席、イヤホン、スマホ、川など必ず境界線があり、それが現実とフィクションを分け隔てている。
この物理的な距離が推す推される関係においては必須なのだが、推しはそれを飛び越えてファンを殴ってしまう。
あかりはそんな推しをなんとか正しい距離に推し戻そうとするが、結局推しは人間に戻ってしまう。
私の推し、宇多田ヒカルはデビューからずっと人間を超越している。
出産という最も人間らしい行いを通過してもなお人間とは思えない。
彼女にはステージもスマホも必要ない。
才能という二文字できっぱりと我々を分け隔てる。
私はあかりと違って社会に自分を合わせるのが得意だった。
これをやっておけば弾き飛ばされることはないっていうラインみたいなものがなんとなくいつもわかった。
中の上くらいのレベルの戦いならちょっと努力するだけでいちばんにもなれた。
毎日つまらなかった。
上にも下にも突き抜けられない自分がくだらなくて、表現を始めた。
そして推しの凄さを知った。
例えば『スラムダンク』だって話が進むにつれて、絵も物語もどんどんうまくなるのに、宇多田ヒカルは『Automatic』も『Time』も一緒なんだもの。
私の推しが、私と同じように、目が2つで指が5本なだけで十分に嬉しい。