『大空で抱きしめて』 宇多田ヒカル

 

今にいるけど、明日とか、夢を叶えた自分とか、そんなことばかり考えてしまう。

 

今にいるけど、昨日とか、いちばん好きだったあの人のこととか、そんなことばっかり考えてしまう。

 

たぶん、これまでの今も、これからの今も、別の時間のことばっかり考え生きているんだろうと思う。

 

だったら、高校生の僕も、社会人になった僕も、結婚した僕も、親になった僕も、ぜんぶ曖昧で、ぜんぶ違う。

 

からだは今にいるのは間違いないんだけど、僕はほんとうはどこにいるんだろう。

 

ここにいるよ。

大丈夫、ちゃんとここにいるよ。

 

そんなふうにだれかに言ってもらえないと、ずっとずっと雲の中のままだ。

 

ここからだと、だれのことも触れられないし、だれのことも傷つけられない。

 

傷ついたり、裏切られないと、ここがどこで、僕がだれだかわからないんだ。

 

だれか、雲をはらって、僕を見つけて、大空で抱きしめて。

 

僕の言葉

ツイッターでつぶやいたり、好きなテレビ番組を観たり、嫌いな上司に怒られたり、昼間から酒を飲んだりしながら、時間は公正に流れて行くんだけれども、僕はここがどこで、いったい何をやっているのかわからないのだ。

 

目の前に現れた人間に対して必要な会話をして、一日はやがて終わり、また明日がやってくるんだけれども、聞く言葉、見る言葉、話す言葉、思う言葉、そのどれもが、僕の言葉ではないのだ。

 

会社に行けば僕のデスクがあり、一日の予定があり、確かに僕の役割は、この社会に目に見えて存在している。そしておそらくそれらは僕が望んで、僕が選び、僕が勝ち取ったはずなんだけれども、どれもがどこか他人事で、しがみつきたいほど、泣きたいほど、大切なものとは思えないのだ。

 

いったい僕は誰で、何を求め、どこに向かって進んでいるのだろうか。

 

そんなことを考えてしまうと僕は貝のように黙ってしまう。でも僕がいくら黙っていても、周りにいる誰かは常に喋っていて、ひどくうるさい。

 

いったいいつまでこんなことが続くのだろうか。

僕は自分に合った言葉が欲しいと思う。

時間も場所も温度も音量も、自分にしっくりくる言葉に出会いたい。

でもそれは多分、僕の中にしか存在しないのだ。

 

『虹色バス』 宇多田ヒカル

三度の飯より宇多田ヒカルちゃんが好きなんだけれども、『虹色バス』という曲は、盆と正月と誕生日がいっぺんに来たような曲である。

 

『WILD LIFE』というライブで彼女はこの曲を最後の曲にセッティングしていて、そのライブ後に活動を休止した彼女にとって、おそらくこの曲は、宇多田ヒカル第1章のラストメッセージじゃないのかしらと僕なんかは勝手に想像している。

 

この歌は、「Everybody feels same」と何度も繰り返しながら、みーんな同じこと感じてるんだよって歌う。

「雨に打たれて靴の中までびしょ濡れ」とか、「遠足前夜祭必ず寝不足」とか、前半はあるあるを並べて、あなたの嫌いなアイツだって同じことを感じているんだよって歌う。

 

しかしながら、後半は一転して、「誰もいない世界へ私を連れて行って」とヒカルちゃんは歌う。しかも演歌みたいに同じ歌詞を二回も。

 

これはいったいどういう風の吹きまわしかと考えるんだけれども、結局誰も私のことなんて分かってくれない、多様性なんて嘘八百だせ!というメッセージなのか、はたまたみんな同じことを感じている上で、誰もいない世界へ連れて行って欲しいと願っているという意味なのか、もしそうだとしたら、相当救い難い世界だなぁなんて僕なんかは思ったりするんだけれども、ヒカルちゃんの真意はどうなんだろう。

 

その後、8年間のお休みを経てカムバックした彼女は、『ファントーム』を世に出した。

一曲目の『道』では、「どんなことをして誰といても心はあなたと共にある」と歌う。

 

誰もいない世界ってどんな世界なんだろうか。

自分のことを知っている人が一人もいない世界じゃなくて、本当に誰もいない世界。

その世界にはどんな感情があり、どんな音楽があり、どんな言葉があるのだろうか。

この世界で、その世界に一番近い存在は多分ヒカルちゃんだと思うから、僕は彼女の新曲が出たりなんかするとウシシシシって思うのだ。

 

 

『ファミリー・コンポ』と私

 

僕の好きなマンガの一つに北条司さんの『ファミリー・コンポ』という作品があります。

 

ちょいとあらすじを紹介すると……

主人公の大学生、雅彦(男)は、とある家に居候することになったんですが、その家族の夫婦は性別が逆転していて、雅彦はいろんなドタバタに巻き込まれるわけですが、そんな中で、同居している二人の子ども、紫苑に、少しずつ心惹かれていくというお話です。

 紫苑はとにかく美しい顔面の持ち主で、その日によって居心地の良いジェンダーを選んで生活しています。学校と部活は女、バイトは男、みたいな感じです。

性別が逆転している両親の影響で、紫苑は性や恋愛に対して無頓着になっていて、雅彦はそんな紫苑に振り回され続けます。しばらくして紫苑のことを好きだと自覚し始めるんですが、もし紫苑が男だったら俺はオカマじゃないか!……みたいな感じでモンモンするわけです。

物語は終始雅彦の視点で描かれているので、紫苑の葛藤(あるとすればですが……)を読者は知ることが出来ません。紫苑はいつもサバサバとしていて、性別も不明なので、あまり人間味を感じないキャラクターになっています。

最終話、雅彦は「男でも女でも、どっちだって構わない。紫苑が好きだ」と告白します。読者は紫苑の口から、告白の返事と、やっと本当の性別が語られることを期待しますが、北条先生はどちらも明かすことなく、急に物語を終わらせてしまいます。

 

僕はこのマンガを高校生のときに初めて読んだのですが、それ以来ずっと、このラストシーンが心の奥に張りついています。

男と女に対して僕が悩んでいるもの、追求したいもののヒントが、雅彦が乗り越えたもののなかにあるように思えるのです。

もし、紫苑が女性で、雅彦のことを受け入れるエンディングだったなら、こんなに僕の心のなかにとどまることはなかったでしょう。

 

ここまで、『ファミリー・コンポ』への僕の向き合い方を長々書いた上で、

最近僕が男と女について考えていることを二つばかり書こうと思います。

 

一つ目は、男である、女である、この人が好きであるって、ぜんぶ努力と覚悟なんだなって思うことです。

たとえば僕が合コンで、白石麻衣ちゃんみたいな人に出会ったらすぐ好きになると思います。なぜなら、肌が柔らかくて白いし、髪がサラサラでキラキラだし、なんだかスイーツみたいな匂いしてくるし、おっぱいあるし、お尻あるし、つるつるした手足の爪あるし、綺麗な声だし、ジルスチュアートとかのフワッフワした服着てるし、とにかくあっという間に好きになると思います。

でもこれってようはぜんぶひっくるめると、女ってことなんですよね。つまりは、僕は白石麻衣ちゃんが女だから好きなんです。そしていくら白石麻衣ちゃんだって、ワークマンの服着て、ろくでなしブルース読みながら炬燵でケツかきながらポテチばっかり食ってたら3カ月で女じゃなくなると思います。

雅彦が、男でも女でも関係なく紫苑が好きだと言ったのは、まさに努力と覚悟だと思うんですよね。

雅彦は紫苑のいったい何を好きになったんでしょうね。

 

二つ目は、この世界には僕の分身の女性がいるんじゃないかという淡い希望のお話です。

今から6年ほど前に素敵な女性に出会いました。

その人は絵描きで、可愛い顔をしていて、真っ直ぐでウソが苦手で、一発でたまらなく好きだなって思ったんですが、手を握ってみたいとか、頭と肩を合わせて一緒に一つのクレープを突っつき合いたいとか、そんなことは全然感じなくて、これまでの可愛い女の子に対する好きとは全く違うなって感じたことを覚えています。

それは友達という感情ともまた違くて、よくよく考えて、言葉にしてみると、もし僕が女の子だったらこの人みたいだろうなって感情がいちばんしっくりきたのです。

 

その人とはもう疎遠になってしまったんですが、クレープの女の子じゃなくて、その人と二人でずっと遠くまで歩いてみたらどんな世界が見えたんだろうなとか時々眠れない夜とかに思い耽ってみるのでした。

 

 

 

女の強かさ

 

妻の高校時代の友達が遊びにきて、ネイルについて熱く語ってくれたんだけれども、女子力情報に目がない私は耳をダンボにして聞いたんだけれども、女子は結局のところテンションを上げるためにネイルをするんだそうだ。

しかもその女がやるネイルは、一回一万円近くかかるらしく、しかもそれは三週間くらいしかもたないらしくて、だからこそそれを美しく撮影してインスタグラムなるもにアップするそうなのだ。

そして多分爪以外にも女にはオシャレするところがたくさんあって、男からすると除毛さえしてくれれば、ネイルとかアクセサリーとかほとんどどうでもいいので、恐らくもうそこらへんのオシャレは、対男というよりも女同士の戦いなんだろうなと思うのだ。

丸の内とかには本当に俗に言うイイ女がいっぱいいて、カラダ全身美しいんだけれども、そういう女は、そこにかけられるお金と時間が私にはあるんですよって言いながら歩いているのかもしれない。

でも、そこらへんの意図は男には皆目伝わらないので、他の女に向けてなのか、それか純粋に自分のテンションを上げるためなのか、とにかく目の前の一日を楽しく美しく生きるためなのか、なんだかわからないんだけど、そういう女の強かさが私にはたまらないのである。

 

それでは、男は自分のテンションを上げるために何をやるのか‥‥それは多分好きなものを収集することなのかしらと思う。

例えば私であれば、好きな本をしこたま集めて、自分のルールで本棚に並べて、それを眺めているだけで、アレキサンダー大王みたいな気分になるのだ。

そう考えると、男は獲る側で、女は獲られる側なのかもしれないけど、女からしたら獲られた後も命は続くわけだから、とりあえずネイルとかガーデニングとか御朱印集めとかするんだろうなと思うと、やはりそういった女の強かさに、私は憧れてしまうのである。

 

 

社会に戻る前に

 

社会に戻る前に、その目的をあらためてここに書き記す。

いったん戻ってしまうと、なぜ戻ったのかを忘れてしまうことが往々にしてあるからだ。

 

私は優れた小説を書くために社会に戻る。

優れた小説とは、現実社会に新たな宇宙をこしらえるような小説だ。

そして、私が戻る社会とは人であり、人との対決である。

対決というのは、単に男でいう殴り合い、女でいう髪の引っ張り合いではなく、金と時間のやりとりである。

ではなぜ男が髪の引っ張り合いではなくて、殴り合いであるかというと、五指で掴めるほどの頭髪を持つ男の数が、女のそれよりも圧倒的に少ないからである。短髪の男二人が、親指と人差し指のみで互いの髪を掴み合い、引っ張り合っていても、それは対決ではなく、どこか異国の挨拶であろうとみなされる。そして、女が殴り合いではない理由、こちらはとても簡単で、大切なネイルがあるため硬く拳を握られないからである。

と、これまでの五行は、本筋とは全く関係のない話で、読者の時間への冒涜であり、つまりは読者に対する私からの対決である。

 

この三年間、私は現実社会を拒絶し、先人の書いた小説社会と対決してきた。

しかしこの対決はワンウェイな対決であり、相手の金と時間には一向に影響を及ぼすことができない。

このやり方でも優れた小説を書ける輩もいるだろう。しかし、私にそれは叶わなかった。

この期間、私は現実社会を絶つため、スマホからあえてガラケーに機種を変え、「SNSやってる?」と対決を挑んでくる輩を、「ガラケーやからやってないねん」とはねのけていた。皆私のことを電話ボックス君と呼んでいただろう。

仕事中は定時で上がることだけを考え、残りの時間を小説を読むことと書くことだけに費やした。しかし、ワンウェイ対決だけで生まれた私の小説は、それを書いた私自身のように、弱っちく、深みのない代物だった。

この事実は私を幾らか苦しめたが、また現実社会に戻るきっかけを与えてくれることとなった。

 

私は社会に戻る。

身の毛もよだつ速さで打てるようになったガラケーは、スマホに戻した。

ハロー、フリック。ハロー、スワイプアンドタップ。

優れた小説を書くため、私は社会に戻る。

 

Now, I am in Tokyo.

 

ハイパーメディアクリエイターだった妻の進学で、コンクリート・ジャングルTOKYOに引っ越してきて、もうすぐ一か月になります。

 

大人の事情で都心からずいぶん離れたアパートに越したので、全然コンジャン(コンクリート・ジャングル)感がありません。でも念願のスイカを手に入れて、塩ふって食べたわけじゃなくて、改札にピッとして、通過できたときには妻とハイタッチしそうになりました。改札の次は妻にピッ。

 

引っ越して間もなく、妻は学校が始まり大忙しの日々ですが、僕の方は就職活動以外することがないので、家のまわりを走りまくってたら、三日目で、マダムに道を聞かれて、丁寧にお答えすることができるようになりました。

 

妻は帰宅すると、毎晩その日の出来事を目をキラッキラさせながら報告してきやがります。それをほうほうと聞いているだけでは、さすがに忍びないので、僕だって日中に何かして、新しい話題や情報を妻に提供しなければならないのですが、先日は、「この部屋の天井、意外と高くて、椅子の上に立っても全然頭当たらないんだぜ」って言ってやると、「そっ、そうなんや……」と妻は視線をそらしたので、「なんならやって見せようか?」と得意気に言うと、「いっ、いいわ……そうや、今日もたくさん宿題あるんやった」と部屋を出て行ってしまいました。

世の中の奥さん。「ねぇねぇ、そっちはどんな一日やった?」って、失業中の旦那に聞くのは、「詰めるなら小指か薬指どっちがええねん?」って聞くようなもんですよ。絶対にやめましょうね。

 

このまま仕事が決まらなければ、僕はやっとタフな小説を書けるようになるか、東京2020にランナーとして仕上がってしまうか、はたまた自室の掃除だけでは飽き足らず、共用部分まで掃除し始めて、管理会社に就職してしまうかのどれかだと思うんですが、そんなゆったりと構えていられる根性や度胸やお金も無いので、すぐに安定した仕事に就くことでしょう。

 

しかし東京という街は、すんごい街ですね。

たとえば新宿に行くと、人がめちゃくちゃいて、こんなに人がいるのに、みんな違う顔しているっていう事実がほんとうにすごい。

満員電車でぎゅうぎゅうになってると、まわりの人と自分の境目がわからなくなってやばい。

みんな違うのにみんな同じという感じが、東京ではバリバリ伝わってくるのです。

 

はたして僕はこの街を好きになれるのでしょうか。

そのためには、まず仕事をして、ちょっとした恋をして、魔法を無くして空を飛べなくならないといけないのかもしれません。

 

その街に溶け込むというのは、そう簡単にはいきません。

歳を重ねればなおさらです。

 

それでも、僕は明日が愛おしくて仕方がないのです。