女の子になれない理由

ずっと女の子になりたいって思ってたけど、本当に女の子になれた暁には、実際に何をしたいかって考えると、例えば、アーバンリサーチの服とか、MHLの服とか着て、表参道を歩くとか、麻の部屋着で、髪の毛お団子頭にして、クウネルとか読みながら、日本酒に合うおつまみ作ったりとか、リスンのお香焚いて、ディプティックのキャンドル点けて、夜に瞑想するとか、いろいろ思い付くんだけど、どれも1人でやれることで、相手がいないのだ。

相手は男の子なのか、女の子なのか、そこんとこが、いちばん重要で、そこがはっきりしないから、僕の人生も、僕の小説も、突き抜けないのだ。

例えば相手が窪塚くんとか、長瀬くんなら、女の子になって一緒に池袋とか、江の島とか歩きたい。

相手が、池田エライザちゃんとか、井川遥さんとか、小林聡美さんとかなら、女の子になって、一緒にパンケーキ食べたり、ハイボール飲んだり、お花摘んだりしたい。

でも、窪塚くんも、長瀬くんも、エライザちゃんも、井川さんも、聡美さんも僕の日常には、ちっともいないのだ。

そう考えると、わざわざカクカクした骨とアオアオしたヒゲ隠してまで、女の子になる必要ないんじゃないのって思うから、僕の人生も、小説も、突き抜けないのだ。

いったいどうすればいいのだ。このままじゃなにひとつ面白くないことはわかっているんだけど、酒呑んで、コロコロしている間に月曜日が来てしまう。

いっそのこと妊娠できたら最高なんだけと、それだけは絶対できないから人生面白いんだな。

なれない。女の子にはどうしてもなれない。

 

『アリーキャット』 榊英雄

 

普段エンタメ系の映画はあまり観ないんですが、マジ最高でした。

この映画の何が素晴らしいかなんて、そんなもん窪塚洋介さんが素晴らしいのです。

僕はすっぽりDragon Ash世代なので、降谷さんの格好良さは重々承知の助ですが、窪塚さんの隣に立たされたら、誰だって引き立て役になってしまいます。タカとユージみたいにはいかないわけです。(このニッポンでたった一人だけ、TOKIOの長瀬くんだけは彼と互角に張り合います。この件に関しては後述します)

 

とにかくニッポンで今いちばん格好良いのは窪塚さんなのです。

彼の白くて細長い指に触れられたり、のら猫(アリーキャット)のような切れ長の目に見つめられることを想像するだけで、すってんころりんなわけです。

 

トーリーは、元ボクサーの窪塚さんと自動車整備士の降谷さんが、猫を介して知り合いになり、二人でシングルマザーの市川由衣さんを守っていく間に裏社会に巻き込まれていくというお話なんですが、とにかく男が拳を使って女を守る話なわけです。

 

昨今、ヱヴァンゲリヲン碇シンジくんとか、村上春樹先生のやれやれ男子とか、なんだか煮え切らない男子がニッポンカルチャーのヒーロー像を席巻してきましたが、やっぱりヒーローは拳で女の子を守らんといかんのです。

ヒーローが男らしいと、ボコボコにされた彼を、だいじょうぶ?と優しく介抱するヒロインの姿がなんと美しく映ることか。そしてそこで接吻でもしようものなら、その接吻はセックスへのトリガー的役割ではなく、身体やプライドに出来た傷口への包帯的な役割になるわけです。

 

そんな粋な物語の中で、今回窪塚さんが演じるヒーローはマジ半端ない。

若い頃の彼は、なんだか様子がおかしくて、危なっかしい感じが魅力的でしたが、年を重ねた彼は、さらにセクシーだくだくになっていました。斎藤工くんとかも確かにセクシーなんだけど、彼はまだセクシーだく、くらいで、この違い、わかるかなかわんねぇだろうな。

しかも今回の役は一度ボロボロになったことのある元ボクサーの役。一度負けたことのある人がもう一度戦うのは本当にきついですよね。

社会には、一度も戦わない人もいるし、一度も負けない人もいる。一度負けたらそれとずっと戦って生きてゆかなければならない、そんな誠実さが、窪塚さん独特の台詞回しに滲み出ていました。

はっとするような台詞がいくつもありましたよ本当に。

いやぁ彼の言葉は刹那的で、ひと言も聞き逃したくない気分にさせます。

 

そして僕のもう一人のヒーロー、TOKIOの長瀬くん。

みなさん、日曜日の『ごめん、愛してる』観ていますか?

はぁー、吉岡里帆ちゃんになって、ひざ枕してーなおい。

 

とにかく、ちゃんとした男は、ときには拳を使って女の子を守らんといかんのです。

 

すきになりたいひと

とっても素敵な人なのに、今はもう恋人じゃないからとか、もう私以外の別の人を好きになってるからとか、さらには子どもができて家庭があるからだとか、そんなことで、私の出会った素敵な人のことを語れないなんて、なんて悲しいことなんだ。

 

めちゃくちゃに傷つけられたり傷つけたりできる相手なんて、限られた人生のなかでそう簡単に出会えるものか。

 

私が出会ったすきなひとのことを語れないんだったら、全てのオトコとかオンナとか、そんなもんやめてしまえ。

 

よりを戻したいとか、また会いたいとか、そんなんじゃなくて、素敵なあなたと出会ったよろこびを私は伝えたいだけなのよ。

 

『大空で抱きしめて』 宇多田ヒカル

 

今にいるけど、明日とか、夢を叶えた自分とか、そんなことばかり考えてしまう。

 

今にいるけど、昨日とか、いちばん好きだったあの人のこととか、そんなことばっかり考えてしまう。

 

たぶん、これまでの今も、これからの今も、別の時間のことばっかり考え生きているんだろうと思う。

 

だったら、高校生の僕も、社会人になった僕も、結婚した僕も、親になった僕も、ぜんぶ曖昧で、ぜんぶ違う。

 

からだは今にいるのは間違いないんだけど、僕はほんとうはどこにいるんだろう。

 

ここにいるよ。

大丈夫、ちゃんとここにいるよ。

 

そんなふうにだれかに言ってもらえないと、ずっとずっと雲の中のままだ。

 

ここからだと、だれのことも触れられないし、だれのことも傷つけられない。

 

傷ついたり、裏切られないと、ここがどこで、僕がだれだかわからないんだ。

 

だれか、雲をはらって、僕を見つけて、大空で抱きしめて。

 

僕の言葉

ツイッターでつぶやいたり、好きなテレビ番組を観たり、嫌いな上司に怒られたり、昼間から酒を飲んだりしながら、時間は公正に流れて行くんだけれども、僕はここがどこで、いったい何をやっているのかわからないのだ。

 

目の前に現れた人間に対して必要な会話をして、一日はやがて終わり、また明日がやってくるんだけれども、聞く言葉、見る言葉、話す言葉、思う言葉、そのどれもが、僕の言葉ではないのだ。

 

会社に行けば僕のデスクがあり、一日の予定があり、確かに僕の役割は、この社会に目に見えて存在している。そしておそらくそれらは僕が望んで、僕が選び、僕が勝ち取ったはずなんだけれども、どれもがどこか他人事で、しがみつきたいほど、泣きたいほど、大切なものとは思えないのだ。

 

いったい僕は誰で、何を求め、どこに向かって進んでいるのだろうか。

 

そんなことを考えてしまうと僕は貝のように黙ってしまう。でも僕がいくら黙っていても、周りにいる誰かは常に喋っていて、ひどくうるさい。

 

いったいいつまでこんなことが続くのだろうか。

僕は自分に合った言葉が欲しいと思う。

時間も場所も温度も音量も、自分にしっくりくる言葉に出会いたい。

でもそれは多分、僕の中にしか存在しないのだ。

 

『虹色バス』 宇多田ヒカル

三度の飯より宇多田ヒカルちゃんが好きなんだけれども、『虹色バス』という曲は、盆と正月と誕生日がいっぺんに来たような曲である。

 

『WILD LIFE』というライブで彼女はこの曲を最後の曲にセッティングしていて、そのライブ後に活動を休止した彼女にとって、おそらくこの曲は、宇多田ヒカル第1章のラストメッセージじゃないのかしらと僕なんかは勝手に想像している。

 

この歌は、「Everybody feels same」と何度も繰り返しながら、みーんな同じこと感じてるんだよって歌う。

「雨に打たれて靴の中までびしょ濡れ」とか、「遠足前夜祭必ず寝不足」とか、前半はあるあるを並べて、あなたの嫌いなアイツだって同じことを感じているんだよって歌う。

 

しかしながら、後半は一転して、「誰もいない世界へ私を連れて行って」とヒカルちゃんは歌う。しかも演歌みたいに同じ歌詞を二回も。

 

これはいったいどういう風の吹きまわしかと考えるんだけれども、結局誰も私のことなんて分かってくれない、多様性なんて嘘八百だせ!というメッセージなのか、はたまたみんな同じことを感じている上で、誰もいない世界へ連れて行って欲しいと願っているという意味なのか、もしそうだとしたら、相当救い難い世界だなぁなんて僕なんかは思ったりするんだけれども、ヒカルちゃんの真意はどうなんだろう。

 

その後、8年間のお休みを経てカムバックした彼女は、『ファントーム』を世に出した。

一曲目の『道』では、「どんなことをして誰といても心はあなたと共にある」と歌う。

 

誰もいない世界ってどんな世界なんだろうか。

自分のことを知っている人が一人もいない世界じゃなくて、本当に誰もいない世界。

その世界にはどんな感情があり、どんな音楽があり、どんな言葉があるのだろうか。

この世界で、その世界に一番近い存在は多分ヒカルちゃんだと思うから、僕は彼女の新曲が出たりなんかするとウシシシシって思うのだ。

 

 

『ファミリー・コンポ』と私

 

僕の好きなマンガの一つに北条司さんの『ファミリー・コンポ』という作品があります。

 

ちょいとあらすじを紹介すると……

主人公の大学生、雅彦(男)は、とある家に居候することになったんですが、その家族の夫婦は性別が逆転していて、雅彦はいろんなドタバタに巻き込まれるわけですが、そんな中で、同居している二人の子ども、紫苑に、少しずつ心惹かれていくというお話です。

 紫苑はとにかく美しい顔面の持ち主で、その日によって居心地の良いジェンダーを選んで生活しています。学校と部活は女、バイトは男、みたいな感じです。

性別が逆転している両親の影響で、紫苑は性や恋愛に対して無頓着になっていて、雅彦はそんな紫苑に振り回され続けます。しばらくして紫苑のことを好きだと自覚し始めるんですが、もし紫苑が男だったら俺はオカマじゃないか!……みたいな感じでモンモンするわけです。

物語は終始雅彦の視点で描かれているので、紫苑の葛藤(あるとすればですが……)を読者は知ることが出来ません。紫苑はいつもサバサバとしていて、性別も不明なので、あまり人間味を感じないキャラクターになっています。

最終話、雅彦は「男でも女でも、どっちだって構わない。紫苑が好きだ」と告白します。読者は紫苑の口から、告白の返事と、やっと本当の性別が語られることを期待しますが、北条先生はどちらも明かすことなく、急に物語を終わらせてしまいます。

 

僕はこのマンガを高校生のときに初めて読んだのですが、それ以来ずっと、このラストシーンが心の奥に張りついています。

男と女に対して僕が悩んでいるもの、追求したいもののヒントが、雅彦が乗り越えたもののなかにあるように思えるのです。

もし、紫苑が女性で、雅彦のことを受け入れるエンディングだったなら、こんなに僕の心のなかにとどまることはなかったでしょう。

 

ここまで、『ファミリー・コンポ』への僕の向き合い方を長々書いた上で、

最近僕が男と女について考えていることを二つばかり書こうと思います。

 

一つ目は、男である、女である、この人が好きであるって、ぜんぶ努力と覚悟なんだなって思うことです。

たとえば僕が合コンで、白石麻衣ちゃんみたいな人に出会ったらすぐ好きになると思います。なぜなら、肌が柔らかくて白いし、髪がサラサラでキラキラだし、なんだかスイーツみたいな匂いしてくるし、おっぱいあるし、お尻あるし、つるつるした手足の爪あるし、綺麗な声だし、ジルスチュアートとかのフワッフワした服着てるし、とにかくあっという間に好きになると思います。

でもこれってようはぜんぶひっくるめると、女ってことなんですよね。つまりは、僕は白石麻衣ちゃんが女だから好きなんです。そしていくら白石麻衣ちゃんだって、ワークマンの服着て、ろくでなしブルース読みながら炬燵でケツかきながらポテチばっかり食ってたら3カ月で女じゃなくなると思います。

雅彦が、男でも女でも関係なく紫苑が好きだと言ったのは、まさに努力と覚悟だと思うんですよね。

雅彦は紫苑のいったい何を好きになったんでしょうね。

 

二つ目は、この世界には僕の分身の女性がいるんじゃないかという淡い希望のお話です。

今から6年ほど前に素敵な女性に出会いました。

その人は絵描きで、可愛い顔をしていて、真っ直ぐでウソが苦手で、一発でたまらなく好きだなって思ったんですが、手を握ってみたいとか、頭と肩を合わせて一緒に一つのクレープを突っつき合いたいとか、そんなことは全然感じなくて、これまでの可愛い女の子に対する好きとは全く違うなって感じたことを覚えています。

それは友達という感情ともまた違くて、よくよく考えて、言葉にしてみると、もし僕が女の子だったらこの人みたいだろうなって感情がいちばんしっくりきたのです。

 

その人とはもう疎遠になってしまったんですが、クレープの女の子じゃなくて、その人と二人でずっと遠くまで歩いてみたらどんな世界が見えたんだろうなとか時々眠れない夜とかに思い耽ってみるのでした。