『竜馬がゆく』 司馬遼太郎

30過ぎてから『竜馬がゆく』を読み始めた、さるたこです。

全巻読了してから記事を書くつもりでしたが、それでは一向にブログが更新されないことに気が付きましたので、とりあえず一度記事を書かせていただきます。

全8巻あります。現在は2巻まで読了済みです。

 

しかしなにゆえ今になって『竜馬がゆく』なのかと申しますと、最近楽しみに観ているNHK大河ドラマの『花燃ゆ』で幕末にハマってしまい、幕末といえば、『竜馬がゆく』だろうということで手に取って読み始めた所存でございます。

拙者、高校では世界史を選択し、日本史とはとんと無縁の人生を送ってきました。

その為、日本の歴史についてちゃんと腰を据えて考えるのはこれが初めての経験です。

なので情報が澄んだ水のように頭と体に染み渡ります。いやあ楽しい。

もちろん司馬さんのリズミカルな文体も一役買っていることは言わずもがなですが。

 

※ここからネタバレあり注意

 

さて『竜馬がゆく』に関して、2巻で素晴らしい台詞に出会いましたので紹介させていただきます。

それは龍馬の生まれである土佐藩の参政、吉田東洋さんの台詞。

 

「男にも美しさがある。みずからの考えに対して、死を賭しても頑固だということだ」

司馬さんは彼の頑固さを芸術的だと形容しています。

 

この台詞どうですか?僕にとっては今後の30年で何度も思い出す台詞になるだろうなと勝手に想像しております。

 

僕は美しいものが好きです。

美しい女性はもちろん、景色、花、絵画、言葉、かたち、なーんでも。

美しいものにこそ、せっせと働いて貯めたお金と、限りある時間を使うべきだと考えています。

しかし、毎朝鏡に映る、ヒゲまみれの自分の顔はちっとも美しくない。

男に生まれるということは、己に美しさを求めてはいけないと考えていました。

ここで東洋さんは叱ってくれます。

男は己の頑固さ、つまり志に美しさを求めることが出来ると。

もちろん頑固さも中途半端なものでは、醜いだけ。

芸術的と言わしめるまで昇華出来るか。

 

僕は死ぬまでに美しい志を獲得することが出来るでしょうか?

坂本龍馬吉田松陰の背中はまだまだ遠い気がします。

『舞台』 西加奈子

西加奈子さんの作品とは最近出会いました。

以前映画で『きいろいぞう』を観てしまって、何だか小説には手を出せずにいました。

しかし今回『サラバ』で直木賞を受賞されたので、読んでみようかなぁと思ったんですが、どうせ読むならデビュー作からだー!ということで、

『あおい』、『さくら』を読んで『舞台』で三作目。

『さくら』まで順番に来たのに『舞台』に飛んでしまったのは、僕が単純にニューヨーク好きだからです。

※以下ネタバレ注意

 

 

『舞台』は29歳の葉太が、初めての海外旅行でニューヨークに訪れ、初日に盗難にあって自己を再発見するというようなお話です。

 

実は僕も学生時代にニューヨークに留学した経験があり(僕の場合なんの武勇伝もありません。強いて言えば松井のホームランを生で観れたくらいです)、僕にとってもニューヨークは特別な場所です。

まぁ僕の話は置いておきまして、とかく芸術を志す者にとってニューヨークは避けては通れないというか、避けずに通りたいというかそんな場所なのです。

小説家であればニューヨークを書きたい。

画家であればニューヨークを描きたい。

写真家であればニューヨークを撮りたい。

一度でもニューヨークに行ったことがある人ならわかると思いますが、ニューヨークは本当に魔法の街だと思います。

その全てが画になり、物語になります。生活している人と観光客がみんなでニューヨークという舞台を演じているような感じです。

僕は主人公の葉太よりもマンハッタンを歩き回った自信があるので、あっちも、そっちも、もっと西さんにニューヨークを描写して欲しいという目線で最後まで読んでいました。

西さんの『舞台』を読んでセントラルパークに憧れて、実際訪れる人もいるんだろうな。

ちなみに僕はポールオースターの『ムーンパレス』と映画の『ホームアローン2』でセントラルパークに憧れ、実際に訪れました。セントラルパークはマジで最高です。

 

葉太は生きているだけで恥ずかしいという太宰治みたいな人間で、実際太宰作品に影響を受けたと作中で言及します。

そして何もかも失って、最後に自分の抱える「苦しみ」だけが己のものであると悟ります。

 

よく中高生が人には言えないような悩みを抱えて、小説に助けを求めたら、主人公が同じ悩みを抱えていて、僕だけじゃないんだって、救われたという話を聞きますが、僕の場合は、自分の変さとかコンプレックスだけが、自分と他人をわけ隔てる唯一のアイデンティティみたいなものだと考えていたので、小説で同じもの抱えた登場人物に出会うと、俺って普通だったんだとか、みんなもそれ考えていたんだと逆に落ち込んだ気がします。

 

自分はみんなと同じ。自分はみんなと違う。自分のことを考え出すと答えは見つかりません。

でもニューヨークという舞台は自分のことを考えるのに最適な場所だと僕は思います。

 

 

『昭和歌謡大全集』 村上龍

またも村上龍さんです。

まとめ買いしちゃったのでしょうがないんです。

昭和歌謡大全集』すごいタイトルですね。純文学?小説のタイトルとはとても思えません。

※以下ネタバレ注意

 

 

この作品は、同じ龍さんの『半島を出よ』と共通のキャラクターが出てくるということで読んでみました。

『半島を出よ』を未読の方、すみやかに読んでください。ドラゴンボールとかスラムダンクを読んでないくらい人生損してます。

昭和歌謡大全集』のあらすじを簡単に言うと、頭のおかしい青年グループと、同じ「ミドリ」という名前を持ったおばさんグループが真剣に殺し合うという内容です。それ以上それ以下でもありません。

 

例えば夜寝る前に上記のプロットを思い立って、「きたーこれめっちゃおもろいやんけ」と言いながら机に向かって書き始めても、正常な人間であれば、500文字くらい書いた時点で、そっとペンを置いてベットに戻り、書かなかったことにすると思います。ちょっといかれた人なら原稿用紙5枚くらい書いて、疲れてベットに戻って、年上の異性と性交渉する夢とか見て、朝起きた時点で、書いたものを破り捨てると思います。でも龍さんは本当にぶっ飛んでいるので最後まで書き切ります。しかも相当楽しそうに。

 

彼の文章は読んでいて本当に勇気づけられます。なぜなら、読者に対して一切気を使っていないから。

本来小説なんて全く必要のないもので、龍さんが小説を書かなくても世界は回りますが(たぶん今よりスムーズに笑)、TOYOTAが車を作らなくなったら世の中えらいこっちゃです。

つまり小説とは書きたいから書くのであって、読者や出版社から書かされているモノだったらそんなもの小説でもなんでもないわけです。

世の中こんなにも周りに気を配って、人の顔色伺って、みんな生きてるのに、龍さんはアホみたいな青年とおばさんの殺し合いという本当にどうでもいい話を笑いながら語り、僕は何だって選択できる恵まれた社会環境の中で、何度もいいますが、くるった青年とおばさんの殺し合いという本当にどうでもよくて何の生産性もない小説に一度きりの人生の時間を惜し気もなく使うわけです。

 

青年グループもおばさんグループも、生まれて初めて心の底からやりたいことに出会います。それが皮肉にもお互いを殺し合うことなわけです。

やりたいことに出会い、生きる目的が絞られた人間は、たちまち見える景色や言動、周りからの評価などが変わっていきます。

生まれてきたらみんなどこかしら、頭のおかしい青年グループであり、名前の同じおばさんグループなわけです。

龍さんみたいにやりたいことに出会って笑いながら生きるか、そういう人に笑わせられながら生きるか、人生はどちらかしかないのかもしれません。

 

次回は西加奈子さんの『舞台』を読みます。

 

『イン ザ・ミソスープ』 村上龍

村上龍さんの『イン ザ・ミソスープ』読み終わりました。
※ここからネタバレ注意

前回の中村さんに引き続きかなり重い内容でした笑
いちおう断っておきますが、僕は決してノワール小説好きというわけではありません。中村さんの前は、川上未映子さんの『すべて真夜中の恋人たち』を読みながら、30半ばの女性になって、三束さんという謎めいた年上男性との恋にやきもきやきもきしておりました笑

さて村上龍さんですが、本当に凄い小説家です。
僕たちの世代だと、村上春樹さんの方がメジャーですが、龍さんの本を何でもいいから1冊手に取って1回真剣に読めば、彼の小説の強さ、そして鋭さに驚かされると思います。本当に無駄のない文章で、キレッキレです。

今回の『イン ザ・ミソスープ』という小説は、変な外国人と、彼に東京の夜の街を案内する青年の話なんですが、その外国人は実はあくびしながら人を殺せる人間なわけです。
コミュケーションって、特に日本の場合、相手の立場をいくらか想像できるから成り立つわけで、でも今回主人公の前に現れたのは本当に1ミリも共感とかできない相手なわけで、そんな二人がどうやってコミュニケートするかっていうところが面白いところなんですが…一読しただけでは、外国人のフランクが行う殺人シーンのイメージだけが脳裏にベッタリと張り付いてしまいます。

僕はこの小説がブックオフとかで100円で売られている事実が本当に恐ろしい。いっそのこと新聞紙でくるんで、ガムテープでぐるぐる巻きにして、金庫で保管して欲しい。そのくらい龍さん描写と言葉は震えるほどに恐い。
その文体でフィクションをどこまでもリアルに近づけてくる。
僕らの周りにあるもろくてゆらゆらした現実なんて簡単にぶっ壊されて、最後に耳元で「こんなふうになったら、お前はどうする?」ってささやかれる。

僕は龍さんの小説を読むたびに、物語や言葉の持つ力にぶるぶると震えるのでした。

『王国』 中村文則

 今年は本をたくさん読もうと思って、読書マラソンという表を勝手に作って書斎の壁に貼り付けて、読んだ本を書き並べております。

 

今日は中村文則さんの『王国』を読み終わりました。

※この先ネタバレ注意

 

中村さんの作品はこれで5冊目くらいかな。

初めて読んだ『遮光』で度肝を抜かれて、それから世の中のことが嫌になったり、ちょっと暴力的な気持ちになったときに未読のやつを読んでます(ということは中村さんの本に出会ってから、もう5回くらい世の中のことが嫌になっているのか笑)

 

中村さんの作品の主人公の特徴は、一言でいうと、マジで空気読めない奴。

友達と遊んでて、他のグループにわざと聞こえるように暴言を吐いたり、みんながここらへんまでが笑って許せる範囲っていうラインをわざと越えて、問題を起こしてみたりする。田舎だったら一学年に一人くらいの割合でいる異常な奴です。

こういう奴って頭がいいと手におえなくて、周りの人間の自己犠牲を受けて社会に出てからかなり大成するんだよな。

こういう奴が楽しそうにしているのを見ると、周りの人間はかなり不安になる。

でも中村さんの作品を読むと、そういう奴が何を考えているのか少し分かって楽になれる気がする。

 

『王国』は女性が主人公だったので、これまでの中村作品とは異質だった。

主人公は、性以外では自分をコントロールすることが出来ていて、そのおかげで性に対する欲や善悪の感情が際立っていたように思う。

 

本の中で、主人公がお金のため自分の能力以上の世界にいつの間にか潜り込んでしまったと自覚するシーンがあった。

終盤、悪の親玉木崎と対峙する場面では、ピストルを撃つか撃たないかという簡単な選択の狭間で、命や人生に対する深い考察があった。

 

木崎はこう言っていた。

「問題は長短ではない。肝心なのは、この世界の様々な要素をどう味わうかだ」

この世界への切符が命であるなら、お金、能力、時間、何が世界を楽しみつくすのに最も大切なのだろうか?

 

次は村上龍さんの『インザミソスープ』を読みます。