すきなひと

 

僕には好きな人が二人いる。

村上春樹宇多田ヒカルだ。

彼と一緒にサッカーをしたり、銭湯に行ったり、ナンパをしたことがないし、

彼女と一緒に映画をみたり、公園に行ったり、セックスをしたことがないから、

おそらく二人のことは、これからもずっと好きだと思う。

 

好きという言葉はとても曖昧で、オムライスやコインランドリーに対しても僕は使っちゃうんだけど、二人に対しては、村上春樹宇多田ヒカルに、なりたいと、僕は思うのだ。

 

彼の小説を読んでいるときは簡単で、彼の立ち上げたキャラクターを通して彼になることができる。

 

彼女になるにはいささか難しくて、イヤホンで彼女の曲を聴き、目をつむり、両耳に届いている彼女の声にケーブルを介してたどりながら、彼女の細部までを想像しなければならない。

例えば僕の一番好きな曲、『time will tell』を聴いているとき、歌っている彼女はどんな様子だろうと真剣に想像する。彼女の気持ちから、レコーディングの日の彼女の手先や足先の様子まで。

time will tell』で彼女は、「今の言い訳じゃ、自分さえごまかせない」と歌う。

彼女はこのフレーズを15歳で世に出した。こんなことを言っちゃう15歳を、30を超えたおっさんが真剣に想像すると、彼女の歌を、本当に自分が歌っているかのような感情になってくる

 

頭のなかで二人になることだけでは飽き足りて、現実の社会で二人になろうと思うようになった。

 

彼のように小説を書き、マラソンを趣味にしたが、自分の書いた小説はちっとも面白くないし、マラソンも、腹を空かせ、エンゲル係数と洗濯の回数を増やすだけだった。

 

彼女のように、女性みたいな髪型や服装にしてみたり、英語を学んだり(歌を歌ったり、作詞することは出来なかった。小説は文字の読み書きが出来れば可能だが、音楽は、もっと原始的だから、そう簡単にはいかない)もしてみたけど、英語は、TOEIC900点くらい獲っても、英語そのものがツールだから、それを使ってやりたいことがないと意味がないし、男の僕が女性になることは、神様にたてつくことになるから、大切な妻がいる僕にはそんなことできなかった。

 

現実は、刻々と僕のことを、村上春樹ではない、宇多田ヒカルではない、と言ってくる。

それでも僕は、自分が村上春樹ではない、宇多田ヒカルではないということを信じられない。

 

二人みたいになれるように努力することは、他人の人生を生きることになるかもしれない。

でも、いろいろ挑戦したことがある人なら分かっていただけるとおもうが、『自分』なんていうものは存在しない。村上春樹宇多田ヒカルが好きという人間が僕なのだ。

 

ノーベル文学賞を獲ることより、

グラミー賞を獲ることよりも、

僕は、何回読んでも、聴いても、「今日もこの一日を生き続けよう」と思える作品を作りたい。

おそらくそれが、二人に憧れ続けた僕が分かる、二人の想いなのだ。

 

世界をつなぎとめる言葉

 

週末、旧友に会うため、関西に行った。

一年ぶりの関西弁は、もう耳慣れない言葉に聞こえた。

日曜の朝、新快速列車に乗り込み帰路につくと、しばらくして車内アナウンスが流れた。

「お客様にお知らせいたします。○時○分、吹田駅ホーム内で人身事故があり、その影響のため、現在、大阪京都間の運行のめどが立っておりません。この電車も次の西宮駅で一時運転を見合わせます……」

休日の朝でも新快速列車の乗車率はほぼ100%で、サラリーマンに代わって様々な乗客たちが乗り合わせていた。みんなには何かしら予定があったが、僕には電車を何本か乗り継いで家までたどり着く、それだけしかなかったので、慌てる乗客の様子をじっくり観察することにした。

電車が西宮駅に入り、速度を緩める。

みんなスマホをしゅるしゅるしながら次のアナウンスを待つ。

「西宮ー、西宮ー」、電車が止まり、扉が開く。

「お客様にお詫びとお知らせいたします。吹田駅で起きた人身事故のため、現在、大阪京都間の全線の運行のめどが立っておりません。新しい情報が入り次第お伝えいたします」

半分の人がスマホを見るのをやめて、騒ぎ始める。

家族や友人がいる乗客は、「待つ?」「あきらめてタクシーにする?」「とりあえず行けるところまで行った方がいいんやない?」「お父さん、ちょっと駅員さんに聞いてきて!」とか言っている。

一人きりの乗客は、隣の一人きりの乗客と、「これどうなるんでしょうね?」「私、大阪で友達に会うのよ」「この電車動くんですかね?」「西宮て、せめて尼崎で止まって欲しかったわ」とか言っている。

残りの半分は、いまだスマホで何かを検索している。スマホは現場の駅員より、状況に詳しいのかもしれないし、とっくにあきらめてパズドラをやっているだけかもしれない。

運行ダイヤを失った列車は、鉄道ミュージアムの展示物のようで、乗客たちは意味もなく出入りを繰り返している。

「人身事故て、このクソ忙しいのに何してくれてんねん!」と新喜劇みたいに怒鳴り散らすおっさん。それ聞いて泣き出す子ども。英語でのアナウンスが全くないため、呆然とする外国人観光客。見かねてつたない英語で通訳を始めるインテリ風男子大学生、「アットスイタステーションサムワンゴットアクシデント……」「Pardon?」

壊れかけている世界をなんとか元に戻そうと、みんな必死でしゅるしゅるスマホを操っている。

 

そこで僕は想像する。

もしアナウンスが次のような内容だったなら……、

「お客様にお知らせいたします。○時○分、吹田駅ホーム内で、男子中学生が回送列車に飛び込み、即死しました。そのため、現在、大阪京都間の運行のめどが立っておりません。この電車も次の西宮駅で一時運転を見合わせます……」

新喜劇風のおっさんは怒鳴り散らすのを止めるかもしれないし、この後の日曜の楽しい予定を一部変更する人もいるかもしれないし、急に涙を流し出す人だっているかもしれない。

とにかく実際に流れたアナウンスがあった世界とは、異なる世界が僕の目の前に現れるだろう。

教室で、おそらくいない人と扱われていた男子中学生が、最後の最後に何万人もの現実をかき乱している。

しかし、二時間後、『人身事故』という言葉のおかげで、中学生が揺らした世界は、元の世界に戻る。止まっていた列車もダイヤを取り戻し、再び乗客たちを目的地まで運び続ける。

 

こういう言葉が世界をつなぎとめている。

壊れかけた世界をそっと元に戻している。

おそらく『人身事故』以外にもそういった言葉はたくさんあると思う。

そんな言葉たちが、いいか悪いかは別にして、僕の好きな『何か』を覆い隠しているには違いないのである。

 

『ラ・ラ・ランド』 デイミアン・チャゼル

 

ミュージカルって最高なんです。

あたしゃミュージカルとチョコレートで育ったようなもんなんです。たぶん。

サウンド・オブ・ミュージック、ウエスト・サイド・ストーリー、RENT、ヘアースプレー……

ミュージカルのことを考え出したら、どれだけ死にたくなっても、もう一日、生きられます。

大学生のとき、スタバでバイトしながら、キャラメルマキアート1000杯くらい作って、NYに留学したのも、ブロードウェイでミュージカルが見たかったから。

スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャスですよそんなもん。

 

そんなあたしが観た『ラ・ラ・ランド

最高ですよ。そんなもん。

 

ミュージカルがキライな人は、なんでいきなり歌うの? なんで踊るの? ってよく言いますが、

人間なんて、必死で働いて、飯食うのは、歌って、踊るためなんですよ、ほんとに。

 

全ての言葉、全ての物語は、アンタのもんじゃない。

歌と踊りだけが、アンタのもんなんです。

生まれたばっかりのちびっこも、死ぬ間際のおっさん、おばさんも、歌って、踊っているときが、いちばん楽しいんです。

 

だから、ミュージカルは最高なんです。

 

ラ・ラ・ランド』のあらすじとか、素晴らしい所とか、そんなもん自分で観てください。

僕が伝えたいのは、これを作った監督が、32歳ってこと!!

 

監督と同い年のボクは、この作品を観ながら、泣きながら、まだ夢見ていいんだよね、まだ夢見ていいんだよね、って心のなかで、何度も何度も、確認しました。

 

ミュージカルって、つまるところ、『夢』そのものなんです。

 

デイミアン・チャゼルさん、本当に素晴らしかった。ありがとう。

あたしゃまだまだ夢見るよ。

 

性別のことをなるべく真剣に

 

春めいてくると頭がポカポカして、熊みたいになるってよく言うけど、

ボクなんかは自分がメス熊なのかオス熊なのか、そこんとこが真剣に気になるわけ。

 

最近ニュースとかでLGBTってよく目にするようになったけど、たぶんサンドイッチのことじゃないよね。いろんな性的マイノリティーの人たちをひっくるめてLGBTって呼んでるみたいなんだけど、そうやって名前あげちゃうと、あっ自分はLGBTだったんだ! ガッテンガッテン!みたいな感じで安心しちゃって、そこで考えるのをやめちゃうんだよね。

抱えている悩みや病気に、名前があるのは、それを取り扱う周りの人たちのためであって、決して本人のためなんかじゃないだろうってボクなんかは思うの。

その人の悩みはその人だけのもので、カテゴライズする必要なんてサラサラなくて、そのコンプレックスこそがその人の個性なんだから、悩みに悩み抜いて、自分のコンプレックスに新しい名前つけちゃうくらいになんないとね。

そんなことでボクの悩みのことは『OGK』って呼んでほしい。

『オトコがキライ』の略だよ。一部上場企業みたいな名前でしょ!

 

男のボクがOGKなのはマジでしんどいんですわ。

10代や20代の頃はそれでもなんとか気持ちをごまかしてやってこれたけど、30過ぎるとこりゃもう無理ですわ。身体からも社会からもアンタは男なんやからって迫られて、最近は、えらいジャングルに迷い込んだなぁって思ってたら周り木じゃなくてヒゲやったっていう夢みるくらいまで追い込まれて、マジ自分がオトコなのしんどいんですわ。

これがもしOGS(オトコがスキ)やったら、そりゃもう早い段階で生きづらくなるんだろうけど、OGKだと相手が物好きなら恋に恋い焦がれ恋に泣けるから(GNG=グレイのグロリアス)、結婚なんかもしちゃって、週末は奥さんの買い物に渋々付き合う振りしながら、憧れの女性ブランドショップに潜入して、わーステキー、とか心の中で叫んだり、奥さんが試着室でもたつこうものなら、ルフィには悪いけどボクの方が先にお目当てのワンピース見つけちゃったぞーとか思いながら、薄汚い身体にそれをあてがったりしてみることだけが楽しみになったりするんだよね。

 

こんなボクはこの先どうすればいいんだろうかと真剣に悩んだりもするんだけど、結局OGKとか言いながら、自分がオトコだったから手に入れれたものをぜんぶ捨てる勇気や覚悟がないんだろうなとか考えちゃうと、なんだか泣けてきて、とりあえず目をつむりながらひとり、恋ダンス踊るしかないんだよね。ガッキー……あんたマジ天使だよ。ヒゲまみれのボク……あんたいったい何なのさ。

 

たぶんこんなふうにいろいろ考えちゃうのは、つまるところぜんぶ『HNS』なんだよね。

えっ、『春のせい』ってこと!

 

『マチネの終わりに』 平野啓一郎

 

遅ればせながら、昨年、2016年のさるたこ文学賞は、

平野啓一郎さんの『マチネの終わりに』に決定いたしました。パチパチパチ。

 

この作品、男女の恋愛を主題にした物語のなかで、最高到達点にいっちゃったんじゃないでしょうか。(ちなみに僕が選ぶマチネ以前の最高到達点は、フジテレビのドラマ『やまとなでしこ』で、その前はスタジオジブリのアニメ『耳をすませば』でした。桜子さん! しずくー!)

 

このつながりやすすぎる時代に恋愛の物語をつむぐのはおそらく大変で、なんとかして男女をすれ違わせないといけないから、男女の体が入れ替わったり、契約結婚したりといった設定を物語に組み込むわけですが(断じてディスっているわけではありません。映画の方はサントラヘビロテだったし、ドラマの方は妻と一緒に踊り狂ってました。ヒラマサさーん!)、マチネにはそういった創作的な設定がありません。それでも男と女はすれ違うわけなんですが、その過程においてほとんど瑕疵が見当たりませんでした(一か所だけ、この小説に一気にエンジンをかける重大な行為があるんですが、このつながりやすすぎる時代を逆手に取った行為として、良しとしておきます。さるたこ、何様やねん!)。

 

恋愛っていうのは出会いの場面がいちばん素敵なんです。

真新しい小説のページをめくるときと同じ気分。

なんにも知らない相手のことを、視線と言葉のやり取りで、読み解いていく。

お互いがそれぞれの人生で蓄えてきた情報や経験をカードみたいに出し合って、それまで全く別々だった人生を少しずつ近づけていく。あの過程が最高に素晴らしいのです。

マチネの主人公たちはそれなりに年齢と経験を重ねているので、馬主だと嘘をつくことも、相手より先に図書カードに名前を書くこともいたしません。

マチネは、大人の男女の恋のはじまりをとっても美しく描いているのです。

 

恋のはじまりっていうのはいつだって夢みたいだから、これが現実に起こったことなのか、なにかの物語で読んだことなのかあいまいなんですが、星が落ちてきそうなきれいな夜空の下で、たまたま帰りが一緒になった気になる女の子と話しながら駅に向かって歩くなかで、会話がはずんで、心がおどって、もうしばらく駅に着かなくてもいいのになって思って、たぶん相手も同じこと感じているんじゃないかとか、もう少し話たいけど、カフェとかに入るのは違うんだろうなとかそんなことを感じながら、お別れする夜。

掴みどころがないけど、いつかまたって待ちわびている、そんな恋のはじまりの空気をマチネはしっかり閉じ込めた一冊なのでした。

 

イチ子の夜

 

今年の私のキーワードは『勇気』ということで、先日、人生初のおかまバーに潜入してきました。以下はそのお話。

 

店に入ると、背丈と肩幅からくらいしか男を感じさせない可愛い店員さんに、カウンター席を案内され、結構ガラガラなのに変なおじさんと変なおじさんの間に座らされた。

よく考えると、私も店員さんも変なおじさんだ。みんな変なおじさん。

左の変なおじさんは、常連風吹かしながら煮魚定食を食べていた。まぁ夕飯時だったから別にいいんだけど、バーで、しかも私にとっては人生初のおかまバーなのに、煮魚定食はないよね。しかも食べながらタバコ吸ってた。どっちかにせえよ。店員さんに「美味しい?」って聞かれて、「うん、美味しいよ。ゆなちゃんが作ったの?ってんなわけないか」って言って一人で笑った。カウンターの奥に目をやると、少しまともそうなおじさんがいて、包丁を握っていた。

右の変なおじさんは、女装してて、ゆなさんに「今日も制服で来たの」って言っていた。こういう店に女装してくることは『制服』でくるっていうみたいで、そういう業界用語を知れてやっぱり来てよかったなぁと思った。おじさんは自分のことをゆなさんに「イチ子ちゃん」って呼ばせていて、イチ子ちゃんとゆなさんの可愛い対決は、100対0でゆなさんの勝ちなんだけど、その差は地毛とウイッグの差とか、メイクの技術の差とかではない気がして、その差の謎を今夜解き明かしてやるぞって思った。

目の前の大きなテレビには、なんとか48のどれかのPVがエンドレスで流れていて、突然ゆなさんに「アイドル好き?」って聞かれて、「モー娘まででそれ以降はよく知りません」って答えたら、「お客さん、私と同世代かも」って言われて、ドキっとした。ゆなさんともっと話をしたかったけど、隣のイチ子が聞き耳を立てていたので、いったん止めて、頼んだお酒に手をのばした。ハイボールとミックスナッツはすぐになくなった。

「次なに飲もうかな」って呟いたイチ子のアクセントがあきらかに関西のそれだったので、「大阪の人ですか?」って話し掛けてしまった。イチ子は待ってましたって感じで「違うの神戸なの。あなたは大阪?」ってこっちに体ごと向けてきた。「違うんですけど、昔住んでたことがあって……」「どこ?」「阿倍野です」「阿倍野!」……正面から見たイチ子の顔は、ゆなさんと比べるといやはや1000対0で、「あんな、さっきお店の前で女の子がティッシュ配っててんけど、通り掛かる男みんなに配ってたのに、私には渡さなかってん。これって私が女の子に見えてるってことやんな」「そうですね」「どう? 私カワイイ?」って言うイチ子の鼻からは、鼻毛がわっさーって出ていた。1000対0。

ヒールを履き直していたのか、しゃがみながらカウンターから顔だけのぞかせて「なんか飲む?」って聞いてきたゆなさんを見て、あぁ可愛いなって思った。そして私もゆなさんみたいになれるんかなって、「ゆなさんのおすすめありますか?」って聞いてみたら、二番目に高い銘柄のウイスキーを勧められて、むむってなったけど、それを頼んだ。

「私、以前は数学の先生してたの」ってイチ子がさらっと言うもんだから、鼻毛だけじゃなくて顔全体をちゃんと見た。「先生ってな、生徒になめられたらおしまいやから、こういう気持ち、ずっと隠し続けて生きてきたの」って言うイチ子が急に愛おしく見えてきて、ずっとずっと隠し続けてきたんやから、鼻毛もちゃんと隠したらええのに、でもそんなんは大目に見たらなあかんかなって思った。

「あなたもこういう店に来るんやから、そうなんじゃないの?」

「え?」

私は助けを求めるみたいにゆなさんの方を見たけど、ゆなさんは左のおじさんにワカサギのから揚げをごり押していた。私はおそらくイチ子とはもう二度と会わないだろうから、昔から、ジャンプよりメンズノンノより夏目漱石より、セブンティーンやミーナを読むのが好きだったことを打ち明けた。イチ子は「わかる!わかる!」と言った。私はさらに池田エライザちゃんや井川遥さんになりたいとも語った。イチ子は「わかる!わかる!わかるわー」って鼻毛を揺らした。

同じような悩みを抱えて生きている人がたくさんいることは知っていたけど、その夜、私はそのことをちゃんと知った。だからどうするってことはまだわかんないけど、イチ子とゆなさんは私より可愛いとか美しいにずっと誠実で、はるかに自由だった。なんだかせつない夜だったけど、せつなさは人を美しくさせるんだって思った。

 

SEE YOU IN TOKYO

 

昨年の夏頃にハイパーメディアクリエイターの妻が、今度は「アパレルデザイナーになりたい!」って言い出して、ほうほう、こいつは相当なファンキーガールだなぁと思っていたら、コンクリートジャングルTOKYOの専門学校の入試を受けてきて、パスしやがって、今年の春からスカイスクレイパーTOKYOに住むことになりました。おーこわ。

現在は、見渡す限り山ばかりで、冬になるとロシアくらい寒くなる、とある地方で暮らしているので、生まれて初めてトラフィックジャムTOKYOに住むのは、答えでもない 本当でもない 信じてるのは 胸のドキドキ 胸のドキドキだけっていう感じです。

 

僕はこの人生の行き先を、妻の意見で決めてきました。

今回の決断も周りのピーポーたちは、「あら素敵、理解ある旦那さんだね」とか褒めちぎってくれていますが、心のなかでは、おいおいダンナ大丈夫か、イイナリダンナーかよってつぶやいてるんじゃねえかと思います。

しかし、僕と妻はもう10年以上の付き合いがあり、妻のケイパビリティ―は僕が一番理解しているのです。妻のコミュ力、行動力、ルックス、リーダー性は、僕のそれと比べると雲泥の差であり、妻こそがヒラリーダフ、じゃなくてヒラリークリントンでも破れなかったグラスシーリングを粉々に粉砕してくれるんじゃないか、僕はそう信じているのです。おーこわ。

 

僕のこんな生き方を母親はしっかりと見抜いていて、「アンタはお母さんと一緒や、私も何も考えずにお父さんについて生きてきたらこんなんなってもたわ」と、携帯ショップのイケメンから無理やり契約させられたタブレット端末でゲームをやりながら言ってのけるのでした。

母親が幸せかどうか、僕にはよく分かりませんが、積もり積もった何十年分の愚痴を、ツムツムに重ねて、ポコポコと心地良い音を響かせて、うひょうひょ笑いながらそれらを消している姿は、昨今の鹿島アントラーズくらいしたたかだなって、僕なんかは憧れてしまうのです。

 

僕はガラケーなのでツムツムはやりませんが、妻について生きていく感想を、こんなふうに言葉で積み上げていければいいなと思うのです。

SEE YOU IN TOKYO