『あのこのあしうら写真展』

 

東京、東日本橋で開催された『あのこのあしうら写真展』なるものを観てきた。

 

東京に来て約4ヶ月、何ひとついいことなんてなかったけど、あのこのあしうらだけを集めた写真展を拝むことができる日がくるなんて、東京マジ半端ない、である。

 

「やばい星野源マジ最高なんだけど」って言うのと同じように、「やばいあしうらマジ最高なんだけど」って言えたらどんなに素敵だろうと思う。

 

そもそもの僕は足が大好きで、それがないとみんな生活できないはずなのに、臭いとか、こっちに向けないでとか、いつだって足は虐げられる存在で、胸とかお尻に比べてたいそう可哀想な扱われ方をしている部位なんだけれども、僕の足に対する偏愛をこれ以上言葉にしたら、ただでさえ少ない読者の方を手離すことになりかねないので、「足って結構素敵なかたちしてますよねー」で終わらせておきます。

 

『あのこのあしうら写真展』は、四畳半くらいのスペースに、3人の女の子の様々なシチュエーションのあしうら写真を100枚ほど並べた展覧会で、会場にかかってるBGMは何故かジュディマリでした。

 

入場前に何故か靴を脱がされて、足つぼマットを踏まされながら入場料を払いました。

僕が入ったときは、他に5人くらい男性の同志たちがいて、みうらじゅんさんよろしく「どうかされましたか?」って警察の方に職質されそうなビジュアルの方もいましたが、普通に合コンで現れたら、連絡先聞いちゃおうかしらと思うようなイケメン男性もいて、へーあしうら好きの殿方って結構おるんやねって、僕も胸を撫で下ろした次第でございます。

 

あしうらっていうのは、それだけで魅力的に写る代物ではなくて、セーラー服とあしうらとか、メイド服とあしうらとか、はたまたブランコとあしうらとか、助手席からのあしうらとか、様々な要素と相見えた上での芸術であることを撮影されたキャメラマンさんは重々承知の助で、僕なんかは一枚一枚に目をやりながら、心のなかで「あざますーー!」と叫んでおりました。

 

受付にはなんとそのキャメラマンさんがいらっしゃって、僕なんかよりも、もっと己の癖に対して誠実でいらっしゃる諸先輩方が、キャメラマンさんと「いやーほんとに奇跡のあしうらですね」等と、あしうら談義に興じておりました。

 

キャメラマンさんが、「実はもうすぐ、写真のモデルになった女の子がココに登場しますよ」なんて言うもんだから、諸先輩方は鼻をふがふがさせ始めて、僕なんか新参者は、やだー、こんな狭きところでモデルさんとキャメラマンさんと諸先輩方と一緒なんて、相当やだー、と思ったのですぐに靴を履いて、退散いたしました。

 

もしあのまま会場に残っていたら、僕は諸先輩方と共に、中島誠之助さんよろしく「いい仕事してますねー」とモデルさんのあしうらを眺めていたかもしれません。

 

僕が越してきたこの東京という街は、ともすると僕に「行けるところまで行こうか」と猿岩石さんみたいに誘いかけてくる街でございました。

あーおぞましい、それでいてなんと素晴らしい街でありましょうか。

 

女性のみなさん。何かと露出が多くなる夏、気をつけなはれや!

 

 

嘘みたいな一日

 

いつか人生のどこかで

エレベーターに閉じ込められたり

雪山で遭難したり

いけないことをして独房に入れられたり

そんなじっと一人で寂しさを耐えなきゃいけないときのために

思い出すたびにムフフとなる

嘘みたいな一日というのが僕にはあって

 

それは僕がNYの語学学校に通っていたときの話で

学生30人くらいでヤンキースの試合を観に行った一日で

一人ひっくり返るくらいキレイな日本人の女の子がいて

アメリカ人もブラジル人もフランス人も韓国人も

みんな彼女のとなりに座るのをねらっていて

スタジアムに着くなり椅子取りゲームのオリンピックになって

僕は僕でヤンキーススタジアムの二階席の傾斜があまりにも急で

脚を震わせながら「あわあわどこか空いてる席はないかしら」って必死になって探していたら

イギリス人もスペイン人もイタリア人も差し置いて

「さるたこ一!ここ!一緒に座ろー」ってその女の子に声かけられて

アメリカ人もブラジル人もフランス人も僕のことを殺すような目で見てきて

とにかく二人で座ったら

韓国人や中国人やロシア人やらそりゃもう取り囲まれて

緊張してホットドッグのケチャップとかボトボトこぼしてたら

「松井だ!ほら!松井だよ!」って彼女が僕の肩をたたいて

「え?なになに?なによ?」って股にホットドッグはさみながら

ナプキンでジーパンに付いたケチャップを拭いてたら

「ガズィラ――――――――!マツイ―――――――――!」ってアナウンスが流れて

会場がワーってなって

そしたらカキーンって大きな音がして

誰かが「シーヤー」って叫んで

ホットドッグのことなんか忘れて立ち上がったら

いきなり彼女が抱きついてきて

人生で初めて「ワーオ」って言っちゃって

恥ずかしくなってスタジアムの方を見たら

松井がたんたんとダイヤモンドを周っていました

 

おそらくこんな一日はもう僕には訪れないだろうし

今となってはあの日の出来事が本当に起こったかどうか確かめるすべもないけれど

目を閉じてあの日の断片をどこまでも細かく思い出していれば

どんな孤独な時間も幸福な気持ちでやり過ごすことができる

みなさんにもそんな一日があればいいなと思います

 

女の子になれない理由

ずっと女の子になりたいって思ってたけど、本当に女の子になれた暁には、実際に何をしたいかって考えると、例えば、アーバンリサーチの服とか、MHLの服とか着て、表参道を歩くとか、麻の部屋着で、髪の毛お団子頭にして、クウネルとか読みながら、日本酒に合うおつまみ作ったりとか、リスンのお香焚いて、ディプティックのキャンドル点けて、夜に瞑想するとか、いろいろ思い付くんだけど、どれも1人でやれることで、相手がいないのだ。

相手は男の子なのか、女の子なのか、そこんとこが、いちばん重要で、そこがはっきりしないから、僕の人生も、僕の小説も、突き抜けないのだ。

例えば相手が窪塚くんとか、長瀬くんなら、女の子になって一緒に池袋とか、江の島とか歩きたい。

相手が、池田エライザちゃんとか、井川遥さんとか、小林聡美さんとかなら、女の子になって、一緒にパンケーキ食べたり、ハイボール飲んだり、お花摘んだりしたい。

でも、窪塚くんも、長瀬くんも、エライザちゃんも、井川さんも、聡美さんも僕の日常には、ちっともいないのだ。

そう考えると、わざわざカクカクした骨とアオアオしたヒゲ隠してまで、女の子になる必要ないんじゃないのって思うから、僕の人生も、小説も、突き抜けないのだ。

いったいどうすればいいのだ。このままじゃなにひとつ面白くないことはわかっているんだけど、酒呑んで、コロコロしている間に月曜日が来てしまう。

いっそのこと妊娠できたら最高なんだけと、それだけは絶対できないから人生面白いんだな。

なれない。女の子にはどうしてもなれない。

 

『アリーキャット』 榊英雄

 

普段エンタメ系の映画はあまり観ないんですが、マジ最高でした。

この映画の何が素晴らしいかなんて、そんなもん窪塚洋介さんが素晴らしいのです。

僕はすっぽりDragon Ash世代なので、降谷さんの格好良さは重々承知の助ですが、窪塚さんの隣に立たされたら、誰だって引き立て役になってしまいます。タカとユージみたいにはいかないわけです。(このニッポンでたった一人だけ、TOKIOの長瀬くんだけは彼と互角に張り合います。この件に関しては後述します)

 

とにかくニッポンで今いちばん格好良いのは窪塚さんなのです。

彼の白くて細長い指に触れられたり、のら猫(アリーキャット)のような切れ長の目に見つめられることを想像するだけで、すってんころりんなわけです。

 

トーリーは、元ボクサーの窪塚さんと自動車整備士の降谷さんが、猫を介して知り合いになり、二人でシングルマザーの市川由衣さんを守っていく間に裏社会に巻き込まれていくというお話なんですが、とにかく男が拳を使って女を守る話なわけです。

 

昨今、ヱヴァンゲリヲン碇シンジくんとか、村上春樹先生のやれやれ男子とか、なんだか煮え切らない男子がニッポンカルチャーのヒーロー像を席巻してきましたが、やっぱりヒーローは拳で女の子を守らんといかんのです。

ヒーローが男らしいと、ボコボコにされた彼を、だいじょうぶ?と優しく介抱するヒロインの姿がなんと美しく映ることか。そしてそこで接吻でもしようものなら、その接吻はセックスへのトリガー的役割ではなく、身体やプライドに出来た傷口への包帯的な役割になるわけです。

 

そんな粋な物語の中で、今回窪塚さんが演じるヒーローはマジ半端ない。

若い頃の彼は、なんだか様子がおかしくて、危なっかしい感じが魅力的でしたが、年を重ねた彼は、さらにセクシーだくだくになっていました。斎藤工くんとかも確かにセクシーなんだけど、彼はまだセクシーだく、くらいで、この違い、わかるかなかわんねぇだろうな。

しかも今回の役は一度ボロボロになったことのある元ボクサーの役。一度負けたことのある人がもう一度戦うのは本当にきついですよね。

社会には、一度も戦わない人もいるし、一度も負けない人もいる。一度負けたらそれとずっと戦って生きてゆかなければならない、そんな誠実さが、窪塚さん独特の台詞回しに滲み出ていました。

はっとするような台詞がいくつもありましたよ本当に。

いやぁ彼の言葉は刹那的で、ひと言も聞き逃したくない気分にさせます。

 

そして僕のもう一人のヒーロー、TOKIOの長瀬くん。

みなさん、日曜日の『ごめん、愛してる』観ていますか?

はぁー、吉岡里帆ちゃんになって、ひざ枕してーなおい。

 

とにかく、ちゃんとした男は、ときには拳を使って女の子を守らんといかんのです。

 

すきになりたいひと

とっても素敵な人なのに、今はもう恋人じゃないからとか、もう私以外の別の人を好きになってるからとか、さらには子どもができて家庭があるからだとか、そんなことで、私の出会った素敵な人のことを語れないなんて、なんて悲しいことなんだ。

 

めちゃくちゃに傷つけられたり傷つけたりできる相手なんて、限られた人生のなかでそう簡単に出会えるものか。

 

私が出会ったすきなひとのことを語れないんだったら、全てのオトコとかオンナとか、そんなもんやめてしまえ。

 

よりを戻したいとか、また会いたいとか、そんなんじゃなくて、素敵なあなたと出会ったよろこびを私は伝えたいだけなのよ。

 

『大空で抱きしめて』 宇多田ヒカル

 

今にいるけど、明日とか、夢を叶えた自分とか、そんなことばかり考えてしまう。

 

今にいるけど、昨日とか、いちばん好きだったあの人のこととか、そんなことばっかり考えてしまう。

 

たぶん、これまでの今も、これからの今も、別の時間のことばっかり考え生きているんだろうと思う。

 

だったら、高校生の僕も、社会人になった僕も、結婚した僕も、親になった僕も、ぜんぶ曖昧で、ぜんぶ違う。

 

からだは今にいるのは間違いないんだけど、僕はほんとうはどこにいるんだろう。

 

ここにいるよ。

大丈夫、ちゃんとここにいるよ。

 

そんなふうにだれかに言ってもらえないと、ずっとずっと雲の中のままだ。

 

ここからだと、だれのことも触れられないし、だれのことも傷つけられない。

 

傷ついたり、裏切られないと、ここがどこで、僕がだれだかわからないんだ。

 

だれか、雲をはらって、僕を見つけて、大空で抱きしめて。

 

僕の言葉

ツイッターでつぶやいたり、好きなテレビ番組を観たり、嫌いな上司に怒られたり、昼間から酒を飲んだりしながら、時間は公正に流れて行くんだけれども、僕はここがどこで、いったい何をやっているのかわからないのだ。

 

目の前に現れた人間に対して必要な会話をして、一日はやがて終わり、また明日がやってくるんだけれども、聞く言葉、見る言葉、話す言葉、思う言葉、そのどれもが、僕の言葉ではないのだ。

 

会社に行けば僕のデスクがあり、一日の予定があり、確かに僕の役割は、この社会に目に見えて存在している。そしておそらくそれらは僕が望んで、僕が選び、僕が勝ち取ったはずなんだけれども、どれもがどこか他人事で、しがみつきたいほど、泣きたいほど、大切なものとは思えないのだ。

 

いったい僕は誰で、何を求め、どこに向かって進んでいるのだろうか。

 

そんなことを考えてしまうと僕は貝のように黙ってしまう。でも僕がいくら黙っていても、周りにいる誰かは常に喋っていて、ひどくうるさい。

 

いったいいつまでこんなことが続くのだろうか。

僕は自分に合った言葉が欲しいと思う。

時間も場所も温度も音量も、自分にしっくりくる言葉に出会いたい。

でもそれは多分、僕の中にしか存在しないのだ。