春なのに。
ここ一カ月くらいブログを更新していなかったので、さるたこ死んだんちゃうか?と思われた方もいるかもしれませんが、安心してください、生きてますよ。(なんとか安村さんのヤツをココで入れる勇気すらあります)
実は以前からゆるりと書き進めていた小説に急に勢いが出てきて、レリゴー!てきな感じで書きまくってたら、ブログのことをすっかり忘れていたのです。そしてまたブログに戻ってきたということは小説の勢いはまた急に萎んだということです。トホホでやんす。
しかし小説家になるという過程ほど効率の悪いことはありません。
新人賞を獲ってデビューするというメインストリームなやり方を選んだとすると、まぁ半年くらいで作品を書き上げて応募したとしても、その後結果が分かるまでさらに半年くらいかかるわけです。
一年くらい大学受験と一緒やん。と思われる方もいらっしゃるでしょう。
いえいえ、受験と違うのは、一年間自分が正しい方向に進んでいるかどうか、全く分からない点にあるのです。
自分の小説は面白いのか。自分の文章は上手くなっているか。それを知る術がほとんどありません。
そんなもん誰かに読んでもらえばいいやん。と思われる方もいらっしゃるでしょう。
いえいえ、自分の書いた小説を他の誰かに見せるということは、自分のチンチンを他人に見せるようなものなのです。
僕は、なんなら今から駅前で、帰宅を急ぐサラリーマン全員にチンチンを見せる覚悟がありますが、誰も知らない人のチンチンなんて見たくないのです。
先程からチンチンを連呼しすぎているので、今後はチンチンチンにします。
社会を回してくれている生産的かつ効率的な人たちは、13文字くらいのテキストしか読んでくれない時代なのに、小説は数万文字くらいあるメディアなのです。
僕みたいな奴のチンチンチンを嫌々ながらも辛抱強く読んでくれる稀有な人は、僕の女房か、飛行船パイロットみたいな眼鏡をかけている学生時代の友人くらいなもんです。加えて僕の女房はハイパーメディアクリエーター的な仕事をしているので、活字が苦手なのです。まともに読み終えたことのある小説は、僕の落選作数点とダニエル・キイスさんの『アルジャーノンに花束を』くらいなものです。(まさかここでダニエル・キイスさんと並列するとは!)
そして、こうやって僕のブログを最後まで読んでくれている方がもしいるとすれば、あなたも相当のチンチンチン好きですね笑(不快にさせたら大変申し訳ございません。たぶん巷で話題のメタファーとかアナロジーてきな表現です)
僕みたいな万年予選落ちの書き手は、本当に暗い森の中を、小説家になりたいっていう小さなロウソクの炎を片手に、一人さまよっている感じです。火が消えそうになったら、メラメラ光る先輩小説家さんの火を少し頂いてなんとか歩いている。
歩き続ければ森の外につながる道が見つかるのか。それとも炎をさらに燃やせば誰かが声をかけてくれるか。
春なのに、そんなことばかり考えています。
話は変わりますが、三度の飯より好きだった朝ドラ『あさが来た』が終わってしまいました。
別れてすぐ他の女の子と付き合うような気持ちで、新ドラマ『とと姉ちゃん』を見始めたら、宇多田ヒカルちゃんの新しい主題歌で、春がぶっ飛びました。
ヒカルちゃん。あんた、マジやるね。
一瞬でずっきゅんですわ。あたしはそんな小説が書きたいのです。
『流星ひとつ』 沢木耕太郎
昨今、皆が欲しがる能力の一つとしてよく挙げられるのがコミュニケーション能力ですが、そもそもコミュニケーション能力ってなんですの?
コミュ力が高い人は友達が多かったり、異性にモテたり、仕事がデキたりするって言いますが、いったいそれってどんな人ですの?
リーダシップのある人でしょうか? プレゼンが上手い人でしょうか? 聞き上手な人でしょうか?
いいえ違います。あたしが思うコミュ力が高い人は、嫌われない人やと思います。
例えばこんな会話があるとします。
A ねぇ、あの娘見て、冬にフラペチーノ飲んでる!
B ほんまや!
A マジありえなくない?
B ほんまに
A さすがのウチでも冬にはカフェモカやもん
B ウチも
A でも飲んでみたら意外といけるんかな?
B どうやろ?
A 今度いっぺん飲んでみよか
B せやね
A 冬のフラペチーノデビューやわ
B やったろ
この場合、Bの娘のコミュ力はハンパなくて、いわゆる神の域ですね。
でも、こんな会話がスタバの隣の席から聞こえてきても、「知らんがな!なにペチーノか知らんけど、いつでも好きに飲んだらええがな!」っと一瞬で忘れ去られて、読んでいた本の世界にカミングバックすることでしょう。
しかし、下記のような内容だったらどうでしょうか?
A ねぇ、あの娘見て、冬にフラペチーノ飲んでる!
B ほんまや!
A マジありえなくない?
B そう? ウチは全然ありやと思うけどな。
A うそやろ? フラペチーノは夏、冬はカフェモカって決まってるやん。
B なんなんそれ? 誰が決めたんそれ? ビリケンさん? ビリケンさんならしゃあないけど。
A 今ビリケンさん関係ないやん。スタバでビリケンさんの話すんのやめようや。
B なんで? スタバでビリケンさんの話したらあかんて誰が決めたん?
A いや別にあかんことないけど、ビリケンさんとスタバってあんまり雰囲気合わへんやん。
B そんなことないよ。ビリケンさんがフラペチーノ飲んでたら絶対おもろいやん。二度見してまうやん。
A アンタどんだけビリケンさん好きやねん。ていうかビリケンさんがフラペチーノ飲んだら絶対風邪ひくし。
B なんで?
A ビリケンさん裸やもん。
B そっか。ていうか、わかった! アンタ寒がりやろ?
この場合、Bの娘のコミュ力は無いにも等しい、カス同然ですが、隣の席でこんな会話を繰り広げていたら、読んでる本から目線上げてチラ見してしまうでしょう。これでBの娘の顔がビリケンさんに似てたらフラペチーノを一杯おごってしまうでしょう。
人と人との会話って本音で話したら絶対相容れないし、脱線するし、でもだから面白いわけで。やっぱりコミュニケーション能力みたいなもんをお互いが脱ぎ捨ててからが、
ほんまのコミュニケーションなわけで。
この『流星ひとつ』はそんな生の会話を楽しめる本です。
お酒を交えながら沢木さんと藤圭子さんが付かず離れずするのがとても面白い。
もちろんいろいろ編集されているとは思いますが、ある夜の二人の奇跡のような会話を、同じカウンターの席で盗み聞きしているような感覚にさせられます。
また、二人が飲む火酒(ウォッカ)が作品の雰囲気にぴったりで、二人の会話をより一層儚くて危ういものにしています。
一生に一度きりの大切な会話。それこそ流星みたいにきらきらした会話。
振り返るとあたしにも一つや二つあったような気がします。
死ぬまでに、また誰かとそんな会話をしてみたいなぁ。
もう一度夢をみる
よくね。もし生まれ変わったら何になりたい? とか、一億円当たったらどうする? とか、そんなやたらイェーイな質問がありますがね、
『いや、わたしは今で十分幸せですよ。だから、もし生まれ変わったとしてもまた同じような人生を生きたいですし、仮に一億円当たったとしても、ローソンのプレミアムロールケーキを5個ほど買わせていただいて、あとはユニセフに寄付いたします』
なんて答える人はおそらくシャーリーズセロンくらいなもので、(格別シャーリーズセロンに対して含蓄があるわけではありません。あたしはただ横文字が好きなのです。ダコタファニングとか)
そんな質問が跋扈するんだから、大抵の大人は現在の自分に満足がいっていないわけで、
でも、30年以上生きるとそれなりに自分の人生にも意味があったんちゃうかなぁとか思えたりして、お給料がもらえたり、帰ったら「おかえり」って言ってくれる人がいたり、自分の好きなお店とか場所があったり、日本酒旨いなぁとか空きれいやなとか思えたり、とにかくそんな自分をあっさり否定するのも悔しいもので、やから、
もし、『明日からのあんたの仕事とか家族とか責任とか、あたいがイッサイガッサイ引き受けますさかい、あんたはもう好きなことしたらよろしいがな』おじさんが目の前に現れたらどうする? っていうシュイ―ンな質問に変えます。
あたしの場合は昔からR&B女性シンガーになりたいって夢があって、宇多田ヒカルちゃんとかMISIA姉さんが出てきたときは、それはそれは腰抜かすほどびっくりして、鏡の前で、「キャニュキパシクレ?」とか「キ~スして抱~きしめて♪」とか歌ってたら、あらま、あたし男でしたやん。ヒゲあるし、声、カスみたいですやんってなことに改めて気が付いて、ほんまもし女の子やったら、今すぐ頭コーンローにして、のど飴舐めてLA行ったるのに、神様なんて殺生な、てな感じで、その夢をそっと実家の押入れの中に閉まって生きてきたんだけど、その数年後、あたしがLAやなくてOSAKAで英語の勉強してるときに、実家が建て替えられて、押入れの中のあたしの夢が風に乗って、梅田のタワーレコードまで飛んできて、あたしが丁度ヘッドフォンの視聴再生したら、アリシアキーズ女史の歌声が流れて、ドカーンってえらい衝撃うけて、「ウチ梅田で何してますの、はよLAいかな」って思い出して、パスポート写真撮りに行ったら、前よりも増してヒゲ濃くなってて、せまい証明写真機の中で「どえらいブスやな」ってつぶやいたその声ったら、ヘドロみたいなもんで、そんな感じで、またその夢を今度は、淀川に流したのでした。
やから今さらシュイ―ンおじさんに「好きなことしたらよろしいがな」って言われてもとんと悩むんだけど、「もう、決めきれへんお人やな、そんなんやから、スネ毛が熱帯雨林みたいやねん、もう明日には決めてな」って言い放たれて、帰ってスネ毛さすりながらテレビ見てたら、都会の雑居ビルの飲み屋街に群がるサラリーマンたちのドキュメンタリーみたいなんやってて、そんな中のとあるスナックに、歌のめっぽうお上手なオネエのママがいて、疲れたサラリーマンたちがこぞってそのママの歌に酔いしれているみたいなことやってて、「あっこれにしよう」と思いました。
映像に出ていたママはママというかママンといった感じだし、歌っていた歌も、R&Bではなく、テレサテンの『時の流れに身をまかせ』でしたが、それはそれでええやんと思えたところがあたしの30年なのかなぁとか思ったのです。
30キロ走ると
実はマラソンが趣味なんです。はい。
隙あらば走りにいくので、洗濯物が増えて、嫁にメって言われてるんです。でもだいたいは僕が洗濯しているので、モって言い返してるんです。
年に4回くらいは大会に参加していて、今月末もフルマラソンに出るので、予行練習がてら先程30キロくらいさっくと走ってきたんです。嘘です。さくっとなんて嘘です。最近雪降ったりして全然練習できていなかったし、昨日はなんかよく分からない灯明まつりに、仕事終わりで嫁に連れて行かれて、「ヘイ!試飲どうだい?新酒だよ!」って言うすこぶる陽気なおじさんの声に導かれて、ペロってやっちまったら終いで、嫁が灯篭に気を取られている隙に、熱燗やらふぐひれ酒やらシコタマ呑んでしまって、案の定二日酔いなのに、明日は雨降るかもしらんから、長い距離練習できるのは今日しかないぞOLE!って歯を食いしばりながら走り出してはみたものの、15キロあたりから、胸気持ち悪いし、脚痛いし、って涙出てきて、でも一度やるって決めたことはやりきるのがOLE!って走り続けてたら雨が降ってきて、おかげで泣いてるのバレずに済むやんAME!ってな感じで走り切ったんです。
よく、「何で走るの?しんどいだけじゃん」って言われることがありますが、走るのが好きな人にはそれぞれ理由があって、僕の場合は、ちゃんとそこにゴールがあるからだと思います。
フルなら42キロとちょっと、ハーフなら21キロとちょっと。そこには必ずゴールがあって、どんなに遅くても、どんなにカッコ悪くても、あきらめなければそこに必ずゴールが待っているんです。当たり前のことだけど、これって今の社会では結構珍しいことなんじゃないでしょうか。やっと42キロ走って、ゴールテープを切った瞬間、しょうもない上司が出てきて、「ごめん!あと5キロくらいお願いできる?」って言われたりすることは、マラソンには絶対ないのです。
ってそんな話をしたかったんじゃなくて、今日、走りながらひらめいたことについて書きたかったんでした。しっかりしろOLE!
フルマラソンの経験がある人なら分かると思いますが、残り10キロくらいからは、ほんまにしんどくて、いけるんやったら全裸で走りたいくらい、身に着けているモノとか全てがウザく感じてきます。やのに始めはいろいろと不安やから、キャップ被って、サングラスして、アイポッド耳につけて、時計つけて、あめとか栄養剤とかウエストポーチに入れて、さらに心配性の人は、コースアウトして変な集落に迷い込んで、鬼のイケニエにするぞとか村長に言われるかもしらんから、千円くらい持っていこうかとか、とにかくやたら武装してみんなスタートラインに着くんです。
今日もウエストポーチにチュウチュウしちゃう栄養剤を入れて走り始めたんですが、コレがやたら重くて。残り10キロくらいでチュウチュウしようと思っていましたが、もう我慢できなくて、残り15キロくらいでチュウチュウしたら軽くなって、あー美味しかった、良かった良かったって思ったときに、ギャビーンって稲妻が落ちてきたかのようにあることに気が付きました。
いや、チュウチュウは僕の身体の外から中に移動しただけで全体の重さ変わってないやん!
それは消化したからでしょう!とかメガネをちょこっと上げながら言いたい人もいるかもしれませんが、消化ってなんじゃ!身体いったいどうなってんじゃ!
そんなん言うならサングラスもアイポッドも時計も全部消化できれば無敵やんけ。
はっ!むかーし世界史の教科書とか英単語帳とかを必死で暗記したのは、頭の外にあったそれらを頭の中に移動させる作業だったのか。
そうか!そうやってどんどん頭や身体に必要なものを消化させていけば、何も持たずに綿毛みたいにふわふわ生きていけるやん。
身体はただの乗り物とかいう奴おるけど、正味どんだけ身体に便利な機能をインストールしていくかの勝負やん。身体が一番大事やん。将来火葬だけは遠慮しとこう。うん。
あれ?でもゴール前はなんもいらん、身体すらいらんような感覚やった気もする。
いったいわしはどうしたらいいんじゃ?
と、ここまで考えたところで自宅に着いてしまい、シャワー浴びたら全部流れてどうでもよくなってしまいました。
みなさん、走ってるときってほんとうにヒマなんです。
『五百羅漢図展』 村上隆
土曜日と日曜日、久しぶりにトキョーに行ってきました。
オリンピック招致のとき、白人のおじさんが大層勿体ぶりながら選んだ、あの「トキョー」です。
とはいっても、仕事の研修だったので、トキョーというかほとんどサイタマにある、とある大学に2日間缶詰にされて、やっと解放されたときには、日曜日の午後5時でした。
大学の周りはほとんど木だったし、宿泊したホテルの周りもほとんど西友だったし、ホテルの部屋なんてフロントから一歩プラス本気ジャンプくらいでたどり着く所にドアがあって、そのドアたるやトコロテンと見紛うほど貧相で、一晩中、中国人観光客と受付スタッフの爆笑トーキングが聞こえてくるから、ハイボール2缶とワンカップOZEKIのプレミアム(東京にはOZEKIのプレミアムがあった!さすがトキョー!)を飲んで寝てやったら、2日目の研修内容はほとんど頭に入ってきませんでした。
トキョーに行くからって、うちのショルダー・イン・クローゼットからいちばん可愛い服を見繕って、でもあんまりやる気MAX感が出てるとダッセーから靴はカジュアルなやつ選んだりしたのに、なんだトキョーなんて全然楽しくないじゃん!とか急に空しくなったので、まだ研修終わって5時だったから、渋谷じゃなくて、村上隆さんの『五百羅漢図展』がやっている六本木に向かったのでした。
地下鉄乗ったらまず人が近いのなんのって、ウチの左尻が左隣のボブマーリーみたいなやつの右尻に、ウチの右尻が、右隣のとってもカラフルなスパッツはいてサメみたいな女の左尻に触れてるってなもんで、この距離感であたいを保つの難しいわとか考えながら電車降りて、『グーニーズ』かい!っていうくらいエスカレーター登ってやっと地上に出たらビルが高いのなんのって、人が多いのなんのって、スゲーなおいトキョー、外国人ばっかりだし、こりゃもうあたいの知ってるニッポンじゃありゃしまへん、なんか街中がざわざわ動いてて、行先が決まってない人が大勢いて、あたいのおべべのことなんて誰も気にしてませんやんとか考えてたら、六本木ヒルズに着いて、ヒルズがデカいのなんのって、そんで展示やってる森美術館てぇやつはエレベーターに乗って行くらしくて、50階くらいびゅーんと上がったら宇宙船に乗り込むみたいな入り口になってて、こりゃおったまげトキョー!ってな感じで、村上隆さんの『五百羅漢図展』に入場したので、作品を見る前にお腹いっぱいアイムフルでした。
トキョーに住んでるシティーボーイたちならもっと展示を楽しめたんだろうけど、田舎者の僕にはトキョーのダイナミズムで心がざわついて、作品を落ち着いて楽しめませんでした。その作品とのエンカウンターはたった一度きりなのに、その時の状況とか心境に本当に左右されるなぁとつくづく思うのでした。
※ここからネタバレあり
作品の最後に村上さんからのメッセージがあって(それも作品になってたんだけど)、要約すると若いクリエーター、もっと死ぬ気でやれよベイビー的な感じのメッセージで、それを見てたら、むかーし学生時代に出会って、ちょっとだけ好きになった絵描きの女の子のことを思い出しました。
その子と一度だけ美術館に行ったんだけど、ゆっくり作品を見る僕とは違って、彼女は可愛くとがったあごに手を当てながらサラサラっと見て回るだけで、ホントにあっという間に見終ってしまって、なんも美術のこと知らんくせに長いことアホみたいな顔して見て回る僕を、出口のソファーでずっと待っていてくれたのでした。
それから数年して、突然彼女から「外国でクループ展することになったからこの文章英訳して」って連絡がきて、英訳したら、「DM出来たら送るね」って返事がきて、それきりDMこなくて、こうやってまた展示を見終ると、外で彼女が待っててくれてるんじゃないかなとかほのかに想うのでした。
節分の話
もうすぐ節分である。
僕が敬愛する年間行事のひとつだ。
クリスマスとか正月とか、あんなもんは正味、オコタにはまりながら、右手にスマホ、左手にミカンのぐうたら人間でも、プレゼントとか現金がノーリスクで降ってくる、悪しき行事だとも言える。
しかし、節分は違う。
異界から鬼と呼ばれる化け物が襲来し、死にものぐるいで戦って、得るものは歳の数のマメのみである。
コスパばかり気にするヤングジェネレーションズにはこの行事の秘めたる価値が少しも理解できないであろう。
ノー体罰、ノー朝練、ノー兵役、ノーハラスメント。
モンスターピアレンツや怒れない上司がはびこるこの国では、
どこまででもぬくぬくと生きていける。あーオコタ最高。
2チャンネルやツイッターを使えば、隠れて好きなことが言える。ヘイトスピーチ上等。
はっきり言ってこの国は、もはや恐怖を想像する力を鍛えるオケージョンが皆無なのだ。
そこで、節分である。
昨日の夕方の地方ニュースでやっていた、とある小学校の節分行事はマジ最高だった。
体育館に隔離された児童たちに、突然、2体の鬼が無慈悲なまでに襲いかかる。
泣き叫びながら逃げ回る子。
友達や先生の陰に隠れる子。
全てが嫌になってその場で泣き崩れる子。
マメを握りしめるだけで投げられない子。
投げてもハトに餌をやるみたいに遠慮気味にちょろりと投げる子。
ダルビッシュみたいに投げる子。
マメとか持たずに、鬼に向かって飛び蹴りする子。
(僕はたぶん、握りしめるだけの子だったな)
そんな中、笑いながら児童たちにマメを装填する先生。
(あなたたちがいちばん薄気味悪いぜ)
本当の恐怖を前にして、人はやっと、己の特性を知りうるのである。
終了後、カメラを向けられた児童たちは、泣き止むことができなくて、何を言っているか分からない始末。
「マジやばかった」
「怖かった。死ぬかと思った」
飛び蹴りしていたガキ大将的な奴は泣きながら、
「全然怖くなかった。うぐ。うぐ。勝てると思った」(お前最高だぞバカ野郎!)
そんな中で、すまし顔の男子、
「面白かった。鬼はたぶん○○先生だと思う」(お前が鬼だこの野郎!)
最近ほんまに怖いと思ったことありますかい?
腹の底から震え上がるくらい怖いと思ったこと。
ずーっとむかし、街でいちばんの不良グループにからまれたときも、
ちょっとむかし、社内で女の子と遊び倒していて、上司に呼び出されたときも、
ここさいきん、ふしだらなサイトから多額な請求を受けたときも、
大抵はお金で解決できるし、最悪の場合でも命までは獲られなから、
まあまあビビったくらいだった。
でも、節分だけは、半端じゃない。
昨日の節分ニュースを見て、昨年のパリ同時多発テロを思い出したのは僕だけかしらん。
DIYおじさんの話
職場にDIYおじさんがいる。
すでに還暦を過ぎた嘱託の職員さんで、通常業務がヒマなときは、切れた電球を取り替えたり、滑りの悪いドアの建付けを調節したりと、現役時代のヴェルディ北澤みたいにいつも忙しく職場内を動き回っている。
腰回りは、リーバイスの501ではなくクレ556が引っ掛けてあるそのおじさんは、先日も壊れた加湿器を発見すると、自ら直そうとして、さらっと感電して、「イテテ」と言いながらヒヨコみたいに飛び跳ねていた。
まさに、どうれ(D)、いっちょ(I)、やってみるか(Y)おじさんなのである。
昔はやんちゃでしたフレイバーぷんぷんで、外見は玉置浩二に似ていて、声や話し方は、ヒロミにそっくり。そんなDIYおじさんが昨日、昼休みに僕の机にやってきて、「あのさ、忙しいとこわりいんだけど、その、ラインっていうやつ? ちょっと教えてほしいんだわ、娘と孫が使っててさ、それでさ……」と日焼け顔を少し赤らめて言ってくるのである。
しょうもない表のセルの幅とかを広げたり縮めたりして遊んでいた僕は、そりゃもうキュンキュンしてしまって、目の前のパソコンなんてザンギエフお得意のスクリューパイルドラバ―でぶっ壊して、DIYおじさんとラインで遊ぼう!と思ったら、壊れたパソコンでまた感電するおじさんの姿が容易に想像できたので、パソコンから手を離して、「あっ、イイっすよ」って少しもずっきゅんしてなさそうに答えては見たものの、わたくしそう言えばガラケーユーザーで、ラインを指南できる可能性は皆無で、そしたら隣の机の、新卒で若さだけが取り柄の、職場では春雨しか食べていないのに小太りで、どうせ家帰った瞬間ドンタコスとか食べとるんやろが、ていう感じの女が、「ラインですか? アタシが教えますよ。さるたこさんって確かガラケーでしたよね。ぷぷぷ」とか言い出しやがって、はうー、携帯触るとき、カバンの中で隠しながら触ってたのに、ばれとったのかー、カバンの中でパカパカするの結構難儀やったのに、って心泣きしてたら、DIYおじさんが、「そうか? わりいな」とか言いながらさらに顔赤らめて、女の隣に行ったので、ああ、やっぱり若い方がいいんやなぁとか思いながら、またセルを縮めたり広めたり、今度は2つを1つにしたりしていたら、女がスタンプとかアカウントとか横文字ばかり並べやがって、おじさん、感電したときみたいにあわあわし出したので、おじさんの腰からクレ556を取って、よっぽど二人の間に吹きかけたろうと思ったときに、あっ!これって恋かもしらんって思ったのです。
人が恋に落ちるときってどんなんかんなんって考えますと、結局、TPOとGAPの織りなすシンフォニーとかかなとか思ったりもしますけど、そのGAPって、くそ真面目な人が、いきなり万引きしても、なんてこの人素敵なのかしらん、とはならないわけで、そのGAPって、ほんまによくわからないもんですが、たぶん、人生を楽しむ上で非常に大切なもので、結婚してからは、意図的に遠ざけているのか、最近とんと気にしてないなぁと。でも人に対してじゃなくても、モノとかコトに対しても、このGAPとの出会いって、たぶん、結婚とか出産とかした後でも、大事にせなあかんやろうなとか最近思うのでした。