もうすぐGW

 

 もうすぐGW(ジョージ・ワシントンではありません)。

面白いことはねーかーってなまはげみたいにさまよい歩いているあなた。

日常は、面白いことで溢れ返っているのです。

ということで最近面白かったことを紹介。

 

まずは先日図書館で発見した物。

僕は生意気にも新聞を購読しているので、普段はあまり図書館の新聞コーナーにはお世話になりませんが、その日は魔が差したというか、僕の面白アンテナが何かを感知したというか、とにかく久しぶりに前を横切ったんです。

するとそこには『紙めくりクリーム』なるものが、一つ、一つ、ご丁寧に新聞が取り付けられた傾斜のある全ての机に備え付けられていたのです。

その『ハエ取り紙』以来の明解なネーミングセンスはさることながら、朱肉ケースのような入れ物に詰め込まれたクリームはなんと、目の覚めるようなモスグリーン色をしていたのです。

僕は恐る恐るその一つを真上から覗き込みました。それはまさに村上春樹氏の『ねじまき鳥クロニクル』に登場する井戸を彷彿とさせる神秘的かつ魅惑的な代物でした。中心は手垢で真黒に変色し、底が全く見えません。その吸い込まれそうなほどに強烈なビジュアルと、隣に貼られたライトなフォントで記された『紙めくりクリーム』という名札とのギャップに僕は動悸が激しくなり、ふと隣の席に目をやると、おそらく十日ほど入浴という行為を拒絶し続けている男性が、『紙めくりクリーム』をゴツゴツとした人差し指でぎゅるりと塊、取り、両手のひらになじませているではありませんか。

僕は危うく失神しそうになり、足早にその場を後にしたのでした。

 

続いては地区のフリーマーケットで出くわした人。

とある施設の駐車場で行われたフリーマーケットに出店した僕と妻。

僕らのブースの隣はテレビの取材が来そうな大家族のブースでした。

店主は小奇麗な格好をしたおばさん。息子夫婦や孫たちに的確な指示を出して、子ども服からブティックで扱っているようなテロンテロンの服までたんと売りさばいていました。ファーストリテイリングもびっくり。

お昼の時間になって客足が途絶えると、そのおばさんが僕たちの店を冷やかしに来ました。

ここでくりびつぎょうてんなことにおばさんは素足でした。

目をこすってよく確認しましたが、やっぱり一青窈ではなく隣のおばさんでした。

僕たちの売り物の一つである、赤いスカーフ的な物を手に取り、

「あーこれ! 懐かしいわね。これが500円?」と大げさに言い立てるおばさん。

「これ、着物に合わせて使うやつなのよ。あんたら知ってた?」

実は妻の実家にあったそれをとりあえず持ってきただけで、赤いスカーフ的な物に関する知識においては完全におばさんの方に分があったのです。

「こんなもの500円で売るなんて。まぁ50円なら買ってあげてもいいけど」

それを聞いた僕は、顔から火が出るほど恥ずかしい気持ちになって、このおばさんは、僕たちの無知を赦すだけでなく、身銭を切って、恥ずかしさの元凶である赤いスカーフを僕たちの前から消そうとしてくれるなんて、なんて素晴らしいおばさんなんだろうという気持ちにさせ、まんまと50円でスカーフをかっさらって行ったのでした。

そして素足のおばさんは持ち場に戻ると、パイプ椅子に腰かけ、空を見上げると、

「今日は本当に素晴らしい一日やった。ただ、靴選びを失敗したな」と言い放ったのです。

その時まだ昼の12時半です。

僕はおばさんがどんな靴を履いてきたのか確認してみたい気持ちに駆られましたが、同時におばさんの一日に汚点を残した靴に憎しみさえ感じたのでした。

 

もうすぐGW(ガンダムウイングじゃありません)。

遠くにいかなくたって、日常は、面白いことで溢れ返っているのです。

 

 

春の再会

 

昔の恋人と再会するために生きているんじゃないかと思う。

そして、再会する相手は、振られた人より、振った人との方がなおさら良い。

 

「男は、一度付き合った相手がずっと自分のことを好きだと勘違いしている」って勘違いしている女がいる。

男も女も次に進みたいから振るわけであって、そのあと相手が自分のことをどう思うかなんて別に興味はない。恨まれたり、後を付けられたりしなければ何でもいい。

 

再会した相手は、絵描きの女性だった。

散々泣かせて別れた三年後、彼女の個展が僕の街でも開かれることになったのである。

観に行こうか行かまいか迷った。

何のために行くのか、頭で考えても正当な理由は一つも思いつかなかった。

彼女の作品を観るため。

お世話になったお礼。

辛い思いをさせてしまった埋め合わせ。

彼女の今が幸せかどうか確かめるため。

どれも彼女からすれば、必要ないことこの上ない。

 

結局、僕の顔を見た彼女がどんな表情をするか。何を話すか。

僕は彼女の顔を見てどんな気持ちになるか。それが知りたいだけだった。          

 

再会の気まずい雰囲気を打破するためには最初が肝心だ。

僕はこういう場合、いつも相手にいきなりタックルをする。

物理的に相手にぶつかることで、他のことも一瞬で縮まる。

 

「わっ、びっくりした。」「よっ。」「久しぶり。」「久しぶり。」「元気?」「元気。」

言葉が出てこない。続かない。タックル、初の失敗。

沈黙。こんなに続かないのは、服に興味がないのにエントリーしたユニクロの面接以来だ。

 

「きれいな街だね。」こいつ、そんな映画みたいなセリフ本当に言いやがった。

「結婚したの。」「そっか。」それは知っていた。

「もうすぐ子供も生まれるの。」「そう。」それは知らなかった。

「そっちは?」

「風邪引いた」

彼女は笑った。うんと久しぶりに見た気がした。

 

僕と絵描きの彼女は幸せになるために出会った。

それは今までもこれから先も変わることはない。

それにしても幸せな会話だった。

 

春なのに。

ここ一カ月くらいブログを更新していなかったので、さるたこ死んだんちゃうか?と思われた方もいるかもしれませんが、安心してください、生きてますよ。(なんとか安村さんのヤツをココで入れる勇気すらあります)

実は以前からゆるりと書き進めていた小説に急に勢いが出てきて、レリゴー!てきな感じで書きまくってたら、ブログのことをすっかり忘れていたのです。そしてまたブログに戻ってきたということは小説の勢いはまた急に萎んだということです。トホホでやんす。

 

しかし小説家になるという過程ほど効率の悪いことはありません。

新人賞を獲ってデビューするというメインストリームなやり方を選んだとすると、まぁ半年くらいで作品を書き上げて応募したとしても、その後結果が分かるまでさらに半年くらいかかるわけです。

一年くらい大学受験と一緒やん。と思われる方もいらっしゃるでしょう。

いえいえ、受験と違うのは、一年間自分が正しい方向に進んでいるかどうか、全く分からない点にあるのです。

自分の小説は面白いのか。自分の文章は上手くなっているか。それを知る術がほとんどありません。

そんなもん誰かに読んでもらえばいいやん。と思われる方もいらっしゃるでしょう。

いえいえ、自分の書いた小説を他の誰かに見せるということは、自分のチンチンを他人に見せるようなものなのです。

僕は、なんなら今から駅前で、帰宅を急ぐサラリーマン全員にチンチンを見せる覚悟がありますが、誰も知らない人のチンチンなんて見たくないのです。

先程からチンチンを連呼しすぎているので、今後はチンチンチンにします。

社会を回してくれている生産的かつ効率的な人たちは、13文字くらいのテキストしか読んでくれない時代なのに、小説は数万文字くらいあるメディアなのです。

僕みたいな奴のチンチンチンを嫌々ながらも辛抱強く読んでくれる稀有な人は、僕の女房か、飛行船パイロットみたいな眼鏡をかけている学生時代の友人くらいなもんです。加えて僕の女房はハイパーメディアクリエーター的な仕事をしているので、活字が苦手なのです。まともに読み終えたことのある小説は、僕の落選作数点とダニエル・キイスさんの『アルジャーノンに花束を』くらいなものです。(まさかここでダニエル・キイスさんと並列するとは!)

そして、こうやって僕のブログを最後まで読んでくれている方がもしいるとすれば、あなたも相当のチンチンチン好きですね笑(不快にさせたら大変申し訳ございません。たぶん巷で話題のメタファーとかアナロジーてきな表現です)

僕みたいな万年予選落ちの書き手は、本当に暗い森の中を、小説家になりたいっていう小さなロウソクの炎を片手に、一人さまよっている感じです。火が消えそうになったら、メラメラ光る先輩小説家さんの火を少し頂いてなんとか歩いている。

歩き続ければ森の外につながる道が見つかるのか。それとも炎をさらに燃やせば誰かが声をかけてくれるか。

春なのに、そんなことばかり考えています。

 

話は変わりますが、三度の飯より好きだった朝ドラ『あさが来た』が終わってしまいました。

別れてすぐ他の女の子と付き合うような気持ちで、新ドラマ『とと姉ちゃん』を見始めたら、宇多田ヒカルちゃんの新しい主題歌で、春がぶっ飛びました。

ヒカルちゃん。あんた、マジやるね。

一瞬でずっきゅんですわ。あたしはそんな小説が書きたいのです。

『流星ひとつ』 沢木耕太郎

昨今、皆が欲しがる能力の一つとしてよく挙げられるのがコミュニケーション能力ですが、そもそもコミュニケーション能力ってなんですの?

コミュ力が高い人は友達が多かったり、異性にモテたり、仕事がデキたりするって言いますが、いったいそれってどんな人ですの?

リーダシップのある人でしょうか? プレゼンが上手い人でしょうか? 聞き上手な人でしょうか?

いいえ違います。あたしが思うコミュ力が高い人は、嫌われない人やと思います。

 

例えばこんな会話があるとします。

A ねぇ、あの娘見て、冬にフラペチーノ飲んでる!

B ほんまや!

A マジありえなくない? 

B ほんまに

A さすがのウチでも冬にはカフェモカやもん

B ウチも

A でも飲んでみたら意外といけるんかな?

B どうやろ?

A 今度いっぺん飲んでみよか

B せやね

A 冬のフラペチーノデビューやわ

B やったろ

この場合、Bの娘のコミュ力はハンパなくて、いわゆる神の域ですね。

でも、こんな会話がスタバの隣の席から聞こえてきても、「知らんがな!なにペチーノか知らんけど、いつでも好きに飲んだらええがな!」っと一瞬で忘れ去られて、読んでいた本の世界にカミングバックすることでしょう。

 

しかし、下記のような内容だったらどうでしょうか?

A ねぇ、あの娘見て、冬にフラペチーノ飲んでる!

B ほんまや!

A マジありえなくない? 

B そう? ウチは全然ありやと思うけどな。

A うそやろ? フラペチーノは夏、冬はカフェモカって決まってるやん。

B なんなんそれ? 誰が決めたんそれ? ビリケンさん? ビリケンさんならしゃあないけど。

A 今ビリケンさん関係ないやん。スタバでビリケンさんの話すんのやめようや。

B なんで? スタバでビリケンさんの話したらあかんて誰が決めたん?

A いや別にあかんことないけど、ビリケンさんとスタバってあんまり雰囲気合わへんやん。

B そんなことないよ。ビリケンさんがフラペチーノ飲んでたら絶対おもろいやん。二度見してまうやん。

A アンタどんだけビリケンさん好きやねん。ていうかビリケンさんがフラペチーノ飲んだら絶対風邪ひくし。

B なんで?

A ビリケンさん裸やもん。

B そっか。ていうか、わかった! アンタ寒がりやろ?

この場合、Bの娘のコミュ力は無いにも等しい、カス同然ですが、隣の席でこんな会話を繰り広げていたら、読んでる本から目線上げてチラ見してしまうでしょう。これでBの娘の顔がビリケンさんに似てたらフラペチーノを一杯おごってしまうでしょう。

人と人との会話って本音で話したら絶対相容れないし、脱線するし、でもだから面白いわけで。やっぱりコミュニケーション能力みたいなもんをお互いが脱ぎ捨ててからが、

ほんまのコミュニケーションなわけで。

 

この『流星ひとつ』はそんな生の会話を楽しめる本です。

お酒を交えながら沢木さんと藤圭子さんが付かず離れずするのがとても面白い。

もちろんいろいろ編集されているとは思いますが、ある夜の二人の奇跡のような会話を、同じカウンターの席で盗み聞きしているような感覚にさせられます。

また、二人が飲む火酒(ウォッカ)が作品の雰囲気にぴったりで、二人の会話をより一層儚くて危ういものにしています。

一生に一度きりの大切な会話。それこそ流星みたいにきらきらした会話。

振り返るとあたしにも一つや二つあったような気がします。

死ぬまでに、また誰かとそんな会話をしてみたいなぁ。

もう一度夢をみる

よくね。もし生まれ変わったら何になりたい? とか、一億円当たったらどうする? とか、そんなやたらイェーイな質問がありますがね、

『いや、わたしは今で十分幸せですよ。だから、もし生まれ変わったとしてもまた同じような人生を生きたいですし、仮に一億円当たったとしても、ローソンのプレミアムロールケーキを5個ほど買わせていただいて、あとはユニセフに寄付いたします』

なんて答える人はおそらくシャーリーズセロンくらいなもので、(格別シャーリーズセロンに対して含蓄があるわけではありません。あたしはただ横文字が好きなのです。ダコタファニングとか)

そんな質問が跋扈するんだから、大抵の大人は現在の自分に満足がいっていないわけで、

でも、30年以上生きるとそれなりに自分の人生にも意味があったんちゃうかなぁとか思えたりして、お給料がもらえたり、帰ったら「おかえり」って言ってくれる人がいたり、自分の好きなお店とか場所があったり、日本酒旨いなぁとか空きれいやなとか思えたり、とにかくそんな自分をあっさり否定するのも悔しいもので、やから、

もし、『明日からのあんたの仕事とか家族とか責任とか、あたいがイッサイガッサイ引き受けますさかい、あんたはもう好きなことしたらよろしいがな』おじさんが目の前に現れたらどうする? っていうシュイ―ンな質問に変えます。

 

あたしの場合は昔からR&B女性シンガーになりたいって夢があって、宇多田ヒカルちゃんとかMISIA姉さんが出てきたときは、それはそれは腰抜かすほどびっくりして、鏡の前で、「キャニュキパシクレ?」とか「キ~スして抱~きしめて♪」とか歌ってたら、あらま、あたし男でしたやん。ヒゲあるし、声、カスみたいですやんってなことに改めて気が付いて、ほんまもし女の子やったら、今すぐ頭コーンローにして、のど飴舐めてLA行ったるのに、神様なんて殺生な、てな感じで、その夢をそっと実家の押入れの中に閉まって生きてきたんだけど、その数年後、あたしがLAやなくてOSAKAで英語の勉強してるときに、実家が建て替えられて、押入れの中のあたしの夢が風に乗って、梅田のタワーレコードまで飛んできて、あたしが丁度ヘッドフォンの視聴再生したら、アリシアキーズ女史の歌声が流れて、ドカーンってえらい衝撃うけて、「ウチ梅田で何してますの、はよLAいかな」って思い出して、パスポート写真撮りに行ったら、前よりも増してヒゲ濃くなってて、せまい証明写真機の中で「どえらいブスやな」ってつぶやいたその声ったら、ヘドロみたいなもんで、そんな感じで、またその夢を今度は、淀川に流したのでした。

 やから今さらシュイ―ンおじさんに「好きなことしたらよろしいがな」って言われてもとんと悩むんだけど、「もう、決めきれへんお人やな、そんなんやから、スネ毛が熱帯雨林みたいやねん、もう明日には決めてな」って言い放たれて、帰ってスネ毛さすりながらテレビ見てたら、都会の雑居ビルの飲み屋街に群がるサラリーマンたちのドキュメンタリーみたいなんやってて、そんな中のとあるスナックに、歌のめっぽうお上手なオネエのママがいて、疲れたサラリーマンたちがこぞってそのママの歌に酔いしれているみたいなことやってて、「あっこれにしよう」と思いました。

映像に出ていたママはママというかママンといった感じだし、歌っていた歌も、R&Bではなく、テレサテンの『時の流れに身をまかせ』でしたが、それはそれでええやんと思えたところがあたしの30年なのかなぁとか思ったのです。

30キロ走ると

実はマラソンが趣味なんです。はい。

隙あらば走りにいくので、洗濯物が増えて、嫁にメって言われてるんです。でもだいたいは僕が洗濯しているので、モって言い返してるんです。

年に4回くらいは大会に参加していて、今月末もフルマラソンに出るので、予行練習がてら先程30キロくらいさっくと走ってきたんです。嘘です。さくっとなんて嘘です。最近雪降ったりして全然練習できていなかったし、昨日はなんかよく分からない灯明まつりに、仕事終わりで嫁に連れて行かれて、「ヘイ!試飲どうだい?新酒だよ!」って言うすこぶる陽気なおじさんの声に導かれて、ペロってやっちまったら終いで、嫁が灯篭に気を取られている隙に、熱燗やらふぐひれ酒やらシコタマ呑んでしまって、案の定二日酔いなのに、明日は雨降るかもしらんから、長い距離練習できるのは今日しかないぞOLE!って歯を食いしばりながら走り出してはみたものの、15キロあたりから、胸気持ち悪いし、脚痛いし、って涙出てきて、でも一度やるって決めたことはやりきるのがOLE!って走り続けてたら雨が降ってきて、おかげで泣いてるのバレずに済むやんAME!ってな感じで走り切ったんです。

よく、「何で走るの?しんどいだけじゃん」って言われることがありますが、走るのが好きな人にはそれぞれ理由があって、僕の場合は、ちゃんとそこにゴールがあるからだと思います。

フルなら42キロとちょっと、ハーフなら21キロとちょっと。そこには必ずゴールがあって、どんなに遅くても、どんなにカッコ悪くても、あきらめなければそこに必ずゴールが待っているんです。当たり前のことだけど、これって今の社会では結構珍しいことなんじゃないでしょうか。やっと42キロ走って、ゴールテープを切った瞬間、しょうもない上司が出てきて、「ごめん!あと5キロくらいお願いできる?」って言われたりすることは、マラソンには絶対ないのです。

ってそんな話をしたかったんじゃなくて、今日、走りながらひらめいたことについて書きたかったんでした。しっかりしろOLE!

 

フルマラソンの経験がある人なら分かると思いますが、残り10キロくらいからは、ほんまにしんどくて、いけるんやったら全裸で走りたいくらい、身に着けているモノとか全てがウザく感じてきます。やのに始めはいろいろと不安やから、キャップ被って、サングラスして、アイポッド耳につけて、時計つけて、あめとか栄養剤とかウエストポーチに入れて、さらに心配性の人は、コースアウトして変な集落に迷い込んで、鬼のイケニエにするぞとか村長に言われるかもしらんから、千円くらい持っていこうかとか、とにかくやたら武装してみんなスタートラインに着くんです。

 

今日もウエストポーチにチュウチュウしちゃう栄養剤を入れて走り始めたんですが、コレがやたら重くて。残り10キロくらいでチュウチュウしようと思っていましたが、もう我慢できなくて、残り15キロくらいでチュウチュウしたら軽くなって、あー美味しかった、良かった良かったって思ったときに、ギャビーンって稲妻が落ちてきたかのようにあることに気が付きました。

いや、チュウチュウは僕の身体の外から中に移動しただけで全体の重さ変わってないやん!

それは消化したからでしょう!とかメガネをちょこっと上げながら言いたい人もいるかもしれませんが、消化ってなんじゃ!身体いったいどうなってんじゃ!

そんなん言うならサングラスもアイポッドも時計も全部消化できれば無敵やんけ。

はっ!むかーし世界史の教科書とか英単語帳とかを必死で暗記したのは、頭の外にあったそれらを頭の中に移動させる作業だったのか。

そうか!そうやってどんどん頭や身体に必要なものを消化させていけば、何も持たずに綿毛みたいにふわふわ生きていけるやん。

身体はただの乗り物とかいう奴おるけど、正味どんだけ身体に便利な機能をインストールしていくかの勝負やん。身体が一番大事やん。将来火葬だけは遠慮しとこう。うん。

あれ?でもゴール前はなんもいらん、身体すらいらんような感覚やった気もする。

いったいわしはどうしたらいいんじゃ?

 

と、ここまで考えたところで自宅に着いてしまい、シャワー浴びたら全部流れてどうでもよくなってしまいました。

みなさん、走ってるときってほんとうにヒマなんです。

『五百羅漢図展』 村上隆

土曜日と日曜日、久しぶりにトキョーに行ってきました。

オリンピック招致のとき、白人のおじさんが大層勿体ぶりながら選んだ、あの「トキョー」です。

とはいっても、仕事の研修だったので、トキョーというかほとんどサイタマにある、とある大学に2日間缶詰にされて、やっと解放されたときには、日曜日の午後5時でした。

大学の周りはほとんど木だったし、宿泊したホテルの周りもほとんど西友だったし、ホテルの部屋なんてフロントから一歩プラス本気ジャンプくらいでたどり着く所にドアがあって、そのドアたるやトコロテンと見紛うほど貧相で、一晩中、中国人観光客と受付スタッフの爆笑トーキングが聞こえてくるから、ハイボール2缶とワンカップOZEKIのプレミアム(東京にはOZEKIのプレミアムがあった!さすがトキョー!)を飲んで寝てやったら、2日目の研修内容はほとんど頭に入ってきませんでした。

トキョーに行くからって、うちのショルダー・イン・クローゼットからいちばん可愛い服を見繕って、でもあんまりやる気MAX感が出てるとダッセーから靴はカジュアルなやつ選んだりしたのに、なんだトキョーなんて全然楽しくないじゃん!とか急に空しくなったので、まだ研修終わって5時だったから、渋谷じゃなくて、村上隆さんの『五百羅漢図展』がやっている六本木に向かったのでした。

地下鉄乗ったらまず人が近いのなんのって、ウチの左尻が左隣のボブマーリーみたいなやつの右尻に、ウチの右尻が、右隣のとってもカラフルなスパッツはいてサメみたいな女の左尻に触れてるってなもんで、この距離感であたいを保つの難しいわとか考えながら電車降りて、『グーニーズ』かい!っていうくらいエスカレーター登ってやっと地上に出たらビルが高いのなんのって、人が多いのなんのって、スゲーなおいトキョー、外国人ばっかりだし、こりゃもうあたいの知ってるニッポンじゃありゃしまへん、なんか街中がざわざわ動いてて、行先が決まってない人が大勢いて、あたいのおべべのことなんて誰も気にしてませんやんとか考えてたら、六本木ヒルズに着いて、ヒルズがデカいのなんのって、そんで展示やってる森美術館てぇやつはエレベーターに乗って行くらしくて、50階くらいびゅーんと上がったら宇宙船に乗り込むみたいな入り口になってて、こりゃおったまげトキョー!ってな感じで、村上隆さんの『五百羅漢図展』に入場したので、作品を見る前にお腹いっぱいアイムフルでした。

トキョーに住んでるシティーボーイたちならもっと展示を楽しめたんだろうけど、田舎者の僕にはトキョーのダイナミズムで心がざわついて、作品を落ち着いて楽しめませんでした。その作品とのエンカウンターはたった一度きりなのに、その時の状況とか心境に本当に左右されるなぁとつくづく思うのでした。

 

※ここからネタバレあり

 

作品の最後に村上さんからのメッセージがあって(それも作品になってたんだけど)、要約すると若いクリエーター、もっと死ぬ気でやれよベイビー的な感じのメッセージで、それを見てたら、むかーし学生時代に出会って、ちょっとだけ好きになった絵描きの女の子のことを思い出しました。

その子と一度だけ美術館に行ったんだけど、ゆっくり作品を見る僕とは違って、彼女は可愛くとがったあごに手を当てながらサラサラっと見て回るだけで、ホントにあっという間に見終ってしまって、なんも美術のこと知らんくせに長いことアホみたいな顔して見て回る僕を、出口のソファーでずっと待っていてくれたのでした。

それから数年して、突然彼女から「外国でクループ展することになったからこの文章英訳して」って連絡がきて、英訳したら、「DM出来たら送るね」って返事がきて、それきりDMこなくて、こうやってまた展示を見終ると、外で彼女が待っててくれてるんじゃないかなとかほのかに想うのでした。