言葉に逃げよる

 

夜にも

眠れない夜があったり

飲み過ぎてふらっふらな夜があったり

星が美しい夜があったりするように

 

障害者にも

瞳しか動かせない障害者も

車椅子でパチンコばっかり行ってる障害者も

全盲でスケベな障害者もいる

 

そんなふうにオカマにも

オカンの鏡で化粧して 朝立ちするたびに死にたくなってたオカマもいれば

文化祭の企画で女装に目覚めたオカマもいれば

嫁の下着こっそり履いてみたするオカマもいる

 

障害者とかオカマとか社会人とか日本人とか

なんでもいいんだけど

そういう言葉に 逃げんなよ

そんな言葉のなかには 信じられないほどの細かいレイヤーがあって

それこそがいちばん面白いのに

みんな言葉に逃げよる

 

もっと自分に 昔みたいに 親に心配されるくらい向き合おうや

 

たぶんそれだけだよ

生きてて 本気でやる価値あることって

 

 

横浜たそがれ

 

久しぶりに横浜に行った。

渋谷から東横線に乗ってみなとみらい駅に着いたのは16時30分くらいで、

長い長いエスカレーターに乗って地上に出るとそれはそれは空が広かった。

心地良い潮風を受けながら港町を歩くカップルや公園で遊ぶファミリー、

みんなの顔が柔らかく穏やかだった。全ては広いからだ。広いと心も広くなる。

 

すぐにでもビールを飲みたかったが、夜景を観ながら飲むと決めていたので、スタバかタリーズで時間を潰そうと考えたがどこも満席で、自動販売機で缶コーヒーを買い、海の見える芝生の上に座ってそれを飲んだ。

 

近くで女子中学生の集団がダンスの練習をしながら笑い合っていた。

向こうの広場で大学サークルっぽい集団が円になって座り、懐メロを歌いながら盛り上がっていた。

前の道を何組ものカップルが通りすぎた。そのどれもが少しだけ似ていて少しだけ違っていた。

私は全くの一人だった。

 

陽が沈むにつれてイルミネーションがともされ、夜の横浜への準備が始まった。

私は立ち上がって、尻に付いた芝生を落として、ビールを求め歩き始めた。

テラス席のあるレストランを素通りし、ガラス張りのお洒落なバーも覗くだけにして、

結局コンビニで缶ビールを2本とミックスナッツを買った。

 

今度はまた違った表情の横浜が見える広場を見つけ、ベンチに腰をかけビールのフタを開けた。陽はすっかりと落ちていて夜の横浜とビールがやっと揃った。

 

海の周りにはカメラを構えた人が群がっていた。

ガラの悪そうな男の子たちが広場の奥で騒いでいた。

腰に手を回して歩くカップル。二次会帰りの引き出物を持って歩く集団。汗臭そうなサラリーマンたち。クルージングの呼び込みをする女。ビールや焼きそばを売る男。交通整理をするオッサン。

 

また少し人間が嫌いになっていると感じた。

もちろん人間がいるから横浜の夜はこんなにも美しいのだけど、人間が、というかセックスがなくなればいいと思った。

 

ふと足もとに目を向けると大きなゴキブリがいた。慌てて足を上げた拍子に二本目のビールがベンチの下に落ち、乾いた地面にドロドロと流れ出た。白い泡はやがて消えて黒い染みになった。ゴキブリはとっくにいなくなっていた。

缶を拾い上げると目の前に体格のいいサラリーマンが立っていて「ライターあります?」と聞かれた。

すぐ近くを見ると灰皿があった。私は「すいません」と言った。

 

 

正社員からアルバイトに昇格しました

 

成功することや夢をかなえることが、人類共通のいきがいではないということをちゃんと知ったのはここ5年ほどのことです。

 

僕は昔から「海賊王に俺はなる」みたいなことが最強の美徳だと思っていて、夢や好奇心がない人にはあまり興味がありませんでした。

高校生のとき、仲間内で進路の話になったときも、公務員になりたいと言い出した友達がとてもつまらなく思えて、彼が『モンキーターン』を愛読していたので競艇選手に挑戦すべきだと何度も諭し、目指さないのであれば仲間から抜けてもらうと強要した記憶もあります。(現在彼は立派な公務員で二児の父親。私はアルバイト)

 

しかし、社会に出てみると、人のいきがいはそれぞれであり、何よりも家族を大切にする人、とにかく旨い飯を食いたい人、旅行に行くことばかり考えている人、異性にモテたくて仕方がない人、口を開くと他人の悪口な人、自分や他人を傷つけたがる人、まぁ本当にいろんな人がいて、「海賊王に俺はなる」的なことを言う人はあまりいなくて、とりわけ年を重ねると、海賊でもなくて、ましてや日焼けもしていない奴が、「海賊王に俺はなる」とか言うとかなり疎まれることも分かりました。

 

それでも僕は、成功や夢でなくても、自分のやりたいことを生業にしている人というのがやっぱり一番素敵だなぁと何年経っても思うのです。

例えば初対面の挨拶、または警察からの職務質問でもいいですが、僕は「江戸川コナン、探偵さ」みたいに胸を張って自己紹介ができる人間になりたいのです。

 

東京には本当にたくさんの人がいて、みんなそれぞれ違うようにみえるんですが、結局考えていること一緒で「なんか面白いことねぇかな」であり、面白いことをするためには、そりゃリスクやコストがかかるんですが、そのために正社員からアルバイトになるんなら、そりゃ昇格なんですよ。

 

 

 

『たたみかた第2号』アタシ社

 

『たたみかた』は神奈川県の夫婦出版社「アタシ社」さんが出版している文芸誌で、「30代のための新しい社会文芸誌」というサブタイトルが付いています。

創刊号の「福島特集」はそりゃもう素晴らしかったんですが、待ちに待った第2号は「男らしさ女らしさ特集」という、なんとまあ私が勝手にライフワークとしているテーマだったので、浅草で開かれた『BOOK MARKET 2018』に足を運び、フライングゲットして速攻で読みました。会場では編集長の三根かよこさんにもお会いできて、なんだかとても人間味のある素敵な方で、『たたみかた』が3割増しで好きになりました。

 

それにしてもこの雑誌、まず存在自体が頬ずりしたくなるほど素晴らしいんです。紙の質感、テキストと写真のバランス、ボリューム感、におい…あぁもうたまりません。本が好きな人が大切に作ってるってちゃんと伝わってくる雑誌です。

それはさておき「男らしさ女らしさ特集」と聞いて私はてっきりLGBTの当事者の方とか、男性的な職業の方、女性的な職業の方、夜のお仕事の方、お年寄りから幼児まで等々、性の様々な角度からの「男らしさ女らしさ」を集めた内容になっているのかと思いきや、全然違っていて、「男らしさ女らしさ」を入口または出口として、他者(社会)と個人の関わり方、相手または自己の認め方を考え直すというような内容でした。

 

編集長の三根さんは「男と女」を語るにあたって、私の中に「怒り」が芽を出した、と本の中で書いています。

私にとって「男と女」を語る上で「怒り」とはなんだろうか。私は男として生まれた自分にうまく馴染めなくて今尚もがき続けているけど、それについて別に社会に怒りを抱いたりはしない。ただ毎朝下半身が大きくなったり、髭が伸びたりすることで悲しい気持ちにはなるけれど、女性と恋愛をして、結婚もしているし、仕事も住居もある。しいて言えば、これだけ恵まれているにも関わらず今の自分に満足できない、強欲な自己への怒りだろうか。

 

「男らしさ女らしさ特集」は後半どんどん加速していき、話がセックスに及んだと思いきや、テロリストまで飛躍していきます。男女問わず人間にある心の穴、多様性を認められない人への多様性、ひとさじの自己肯定感など、たくさんの心に残るフレーズが飛び出す中で、私の掴みたい「男らしさ女らしさ」のその先みたいなものの答えは見つからないまま雑誌は幕を閉じてしまいました。まあ名残惜しいこと。

 

「男らしさ女らしさ」の話を持ち出すと、男らしくでも女らしくでもなく、私らしく…と、性別の問題を切り離してすませてしまうことがよくあります。性別の問題も難しいですが、じゃあ私ってなに?は、なおのこと難しい。

それでもスーツではなくワンピースを着たいとか、この季節なら髪の毛アップにして浴衣で街を歩いてみたいとか、子どもを授かれるなら父親ではなく母親として授かりたいという感情は、思考や言葉では押さえつけられないほどリアルにそこにあり、死に近づくにつれてその声が大きくなっているような気がします。

 

今回の特集の中で私が一番面白かったのは、ネルノダイスキさんの『きんき』というマンガでした。男と女が一つになった生き物?だけが暮らす世界のお話。今後の創作のヒントになりました。

 

『たたみかた第2号』、とっても素晴らしかったです。そして男と女を巡るお話は到底終わりそうにありません。

 

 

『ファッションポジウム』

 

6月3日に東大安田講堂で開催された『ファションポジウム』というイベントに参加してきました。

「男女の垣根を越えたファッションの未来を考える」がコンセプトで、三度の飯より男女のその先のことを日々考えている私にとって、胸から乳房が出るほど興味津々な内容で、『あのこのあしうら写真展』以来のやっぱ東京マジヤベーなイベントでした。

 

そもそもはNHKのドラマ等に出演されている、くりびつ仰天可愛い西原さつきさんのインスタでこのイベントを知ったのですが、イベントが始まってまず登場したのは安冨歩さんという東大東洋文化研究所の教授さんでした。この方、登場したというか降臨したというのが丁度良いくらいの神々しさをお持ちになられていて、私はこの方のことを全然知らなくて、この女性装をなさる奇天烈な東大教授さんとお会いできたことが今回の最大の収穫となりました。

 

イベントは安冨歩さんの基調講演、ファッションショー、モデルさんの服のデザインを手がけた『ブローレンヂ』代表の松村智世さんや西原さつきさんらのパネルトーク、写真撮影会の順で進んで行き、最後は陽気な音楽に合わせて皆で踊り狂うというなんだかよくわからない結末を迎えたのですが、東大安田講堂というまさに歴史的閉鎖空間のなかで、皆でやれば怖くない!というある種共犯的な一体感が終始会場を包んでいました。

 

基調講演の中で安冨さんは、我々は様々な「普通」という箱の中に閉じ込められるが、人生で最初に入れられるのが「男か女か」という箱だと話されていました。

その後のファッションショーで、まさにその箱から飛び出した15名ほどモデルさんたちが安田講堂ランウェイを舞うように歩いたのですが、一人のモデルさんの自己紹介テキストの中に「私にとって女性であるということはコンディションの話、人生のテーマにはしません」とありました。あちゃーやられたですよ本当に。男か女のその先を行っちゃってる。

ファッションに背中を押されて、勇気と覚悟で自分と向き合った人たちはこんなにも美しいのでした。

 

それでは私はどうやってその先に向かうのか。女性の格好をしたい男性の自分が本当の自分? 性別なんて記号を取っ払った自分が本当の自分? 考えても考えても結局わからなくて、もうどうしょうもないからみんな踊っちゃおうって、あの日の安田講堂にはあんなに素敵な音楽が流れていたのに、結局最後まで椅子からお尻を浮かせられない自分がそこいたのでした。

 

 

5月のあたし

 

この春から妻が念願のファッション業界に勤め出すやいなや、帰りがえらく遅くなったので、平日は僕が家事を担当しているのだけれども、早起きしてピンクの可愛いエプロンを身につけ、おにぎりを握ったり、お弁当箱に卵焼きを詰めたり、会社のお昼休みには夕食の献立を考えたり、帰り道にスーパーに寄って買物かご片手に冷蔵庫の中を考えながらネギを手に取ったり、帰宅後料理をして出来上がった物にラップして、妻にメニューをラインで知らせ、「たぶん先に寝てるけど気を付けて帰ってきてね」とかメッセージを送っていると、本当に自分が女性になったような気がしてくる。

一応断っておくが、家事をするのは女性の仕事だとか言っているのではなく、なんというか、僕よりはるかに長時間働いて好きな仕事をしている妻に対して、頑張って欲しいなとか毎日楽しんで欲しいなとか気を付けて帰ってきて欲しいなとか、そんなことを考えながら洗濯物を干したり、トイレの便座を磨いたり、はたまた休日でも「行かなきゃ」とか言いながら姿見の前で胡坐をかきながら化粧をしている彼女を後ろから見守ったりしていると、なんだか心と体がポカポカしてきて、自分の胸に乳房とか飛び出してくるんじゃないかとか思うのだ。

このポカポカ感が、僕の中では女性らしくて、家事なんていうのただの行為にすぎなくて、この感情にぴったりな言葉が見つからないから、自分が女性らしくなってきたとか言ってしまうのだ。

結局なにが言いたいのかというと、やっと好きな自分に近づいてきている気がする5月。

 

『伴走者 夏・マラソン編』 浅生鴨

 

いつだって障害×エンタメは放っておけません。

エンタメとは、つまるところ他人の世界を疑似体験することにお金を払うことですが、

アイドルや勇者や犯罪者の世界にはまっさらな気持ちで飛び込めるのに、

障害者の世界となると、僕はいろいろ余分なものを抱えて飛び込んでしまいます。

だから単純に泣いたり笑ったりすることがうまくできない。

多分僕みたいな人が多いから、障害を主題にした作品の数が少ないのだろうと思います。

そんななかで、今回の浅生鴨さんの『伴走者』。

ちなみに僕は、障害福祉分野で働いていた経験があるし、サブ3.5ランナーだし、小説家を志しているしで、相当要らないものを背負ってこの本を読みました笑

 

ネタバレあり

 

結論から申し上げますと、ラスト5ページくらい泣きっぱなしでした。

フルマラソンを走った経験がある人が読めばみんな泣いてしまうんじゃないでしょうか。

この作品は障害が主題のように見えて、マラソン(スポーツ)小説でした。

作中でもありましたが、フルマラソンの30キロを過ぎてくると、視界がぼやけ始めて、沿道の声援、シューズが地面を蹴る音も止み、自分の輪郭が曖昧になって周りのランナーと一体化したように、無意識にただひたすら前に進んでいく、そんな時間が訪れます。

僕は健常者ですが、そのときは誰かに伴走されているような、何かに走らされているような不思議な感覚に陥ります。ランナーだけが知っているあの特別な時間、作品ではラストの内田と淡島のやり取りにそれが滲み出ています。

また、小説という、書いたり読んだりを孤独にかつ能動的に進めるという行為そのものもマラソンにぴったりと重なって最後の素晴しいカタルシスが生まれたように思います。

 

主人公が淡島であること。内田がヒールであること。障害者の話ではなくアスリートの話であること。多分この3点がこの作品をエンタメとして成立させていると思うんですが、僕は、内田が障害を受容する過程であるとか、内田のマラソン以外の側面であるとか、もっと感情移入しづらい先天性のブラインドランナーの登場とか、そういったところを読んでみたい、書いてみたいと思うのですが、エンタメとして成立しづらいのかもしれません。

そんなこと言っても、とにかく自分を信じて書き進めるしかないわけですが、どなたか僕の伴走者(編集者)になってくれませんか。お待ちしています笑