幸せってなんなのよ

 

仕事を辞めて、妻と三週間ほど海外旅行に出かけていた。

行先はイギリスとイタリア。

旅行の主な目的は、イタリアに住む友達家族と再会を果たすためだった。

 

この旅で一番印象に残ったことは、テムズ川で観た夜景でも、イタリアの家族と食べた大きなピッツァでもなく、フィレンツェで起こったとある出来事だった。

 

エノテカという日本でいうところの立ち飲み屋みたいな種類のお店でランチを済まし、僕ちはアカデミア美術館に向かって歩いていた。ミケランジェロの『ダビデ像』がある美術館だ。

入り口から伸びている行列に加わろうとしたところで、一人の男に声をかけられた。

よく日焼けした30代くらいの男で、Tシャツにジーパンというラフな格好だった。

男の手にはA4サイズほどのミケランジェロの『アダムの創造』の絵が握られていて、アダムと神の指先が映画『ET』みたく触れようとしているその箇所に大きな靴跡が付いていた。

男は絵をひらひらさせながら「お前が踏んだ」と言ってきた。

後ろを振り返ると数メートル先に絵や雑貨を路面で売っているグループがいた。

僕はこの時エノテカで白ワインを三杯ほど飲んだ後で、いくらか酔っぱらっていた。絵を踏んだことはもちろん、露店の存在も全く気付いていなかった。

冷静になって考えれば本当に絵を踏んだのかどうか定かではなかったのに、焦った僕はその場で「ソーリー」と言ってしまった。

「金を払え」

「いくら?」

「100」

100ユーロは一万二千円くらいだ。完全にぼったくりだ。

「100なんか払えない。気づかなかったんだ」

「お前がやったんだ。払わないといけない」

「ソーリー」

「こっちにこい」

男が僕を手招きしたところで、妻が「警察を呼ぶ」と言った。

「警察? 悪いのはそっちだろう。とにかくこっちにこい」

男が仲間を呼ぶ仕草を見せたので、僕は咄嗟に男の腕を掴んでしまった。

男は「やんのか」みたいな表情で僕の腕をはねのけた。

僕はそんなつもりじゃないみたいなジェスチャーをしながら、なんだかサッカーの試合でよく観る場面みたいだと思った。

行列からは僕らの方へ視線を向けている人たちもいた。

僕らが「払え!」「払えない」と繰り返している間に、妻は美術館の中に入り、スタッフ数名を連れて出てきた。男はその様子に気がつくと、Fワードを何度も叫びながら去っていた。

 

僕は妻に礼を言って、不注意を詫びた。

数日前イタリアの家族たちに散々注意されていたのだ。イタリアは移民政策に失敗し、都市部は国籍不明の浮浪者たちで溢れている。日本人は特に狙われやすいから十分気をつけろと。

妻は「無事でよかったね」と言った後、「でもたぶん、あの人たちもこんなことやりたくてやってるんじゃないんだろうね」と付け足した。

僕は妻の言葉を聞きながら、いろんな経緯があって旅行者から金を巻き上げることになった男の半生に想いをはせるでもなく、ただただダサい姿を妻に見せつけてしまったことだけに気を落としていたが、思っていたよりデカいダビデ像を見ている頃には全部すっかり忘れていた。

 

帰りの飛行機で映画『億男』を観た。

何気なく観始めたのだが、終始お金とは何かという問いを扱った内容で、昨日までの三週間の旅や、帰国後の求職活動への不安など、普段よりも増してお金に意識が向いていたタイミングだったので、めちゃくちゃ見入ってしまった。

主人公が回想する学生時代に訪れたモンゴルのシーンの中で、今回フィレンツェで僕らに起こった出来事に類似するシーンがあった。

そのシーンを観ながら僕は、はっとした。

 

僕は確かにあの時、僕に吹っ掛けてきた男より僕の方が幸せだと思っていた。

男のそれまでの人生をあれこれ想像することは勝手だが、その男より僕の方が幸せだと感じていたことはなんて傲慢なことだろうと思った。

 

日本で生活をしていくにはお金が必要だ。

僕はこれから仕事を探してお金を稼がなければならない。

どんなふうに稼いでもお金はお金だ。

そしてそれをたぶん幸せのために使う。

幸せってなんなのよ。

 

 

at Blackpool

 

広い広い砂浜の上に立っている

カモメの鳴き声

風と波の音

自然はとても騒がしい

 

小さな女の子が金色の髪を揺らしながら駆けてくる

すぐそばでしゃがみ込んで貝殻を熱心に探し始める

大きな白いカモメが舞い降りてきて 女の子の邪魔をする

 

カモメの真似をして手を広げてみる

大きく大きく広げてみる

目をつむり 鳥になったつもりで 風に身を任せてみる

ゴォーと鳴く海も カモメが舞う空も 光り輝く砂浜も 僕の周りをぐるぐると回って 一つに重なる

でも僕はどこかに立ち止まったままでいて

まだ飛べていない

風も光も 条件は整っているはずなのに

僕の足はそこから離れない

 

「さて君はどうやって飛ぶ?」

 

カモメの声が聞こえた

 

「僕はこの翼で飛ぶ」

 

目を開くと カモメは はるか彼方へ 海へ 空へ

速度を上げて ぐんぐん飛んで行った 

 

砂浜は僕の足の形にへこんでいる

女の子は次の遊びを見つけ すでにいなくなっている

 

さて君はどうやって飛ぶ?

 

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普通の人々

 

ねぇ

君って普通の人だって知ってた?

 

海外ドラマ観て英語覚えたり

一眼レフで写真撮ったりしているみたいだけど

 

君ってぜんぜん特別な人じゃないんだよね

 

特別になれると思ってた?

そりゃ思ってたよね お疲れさま

君はいたって普通の人

 

特別な人は君よりずっと感じたことに正直なの

道端に咲く花とか

夕飯を準備する匂いとか

星空とか

そんなことには見向きもしないで

好きな人のところに真っ直ぐに走っていくの

 

自分が普通の人だって言われて落ち込んだ?

それとも肩の荷が下りた感じ?

 

もう争ったり 探さなくてもいいんだって

 楽になってくれたら嬉しい

ようこそ普通の人々へ

 

もしかして納得いってない?

それなら勝手しなよ

自分は特別だって

まっくらの中 叫びながら走り続けるしかないんだ

 

僕はそんな真似しない

ここで待ってる

君が普通の人になるのをずっとここで待ってるよ

 

 

イエスタデイ

さっきからずっと

昨日のラインのやりとりばっかり

繰り返し見ている

 

同じように見返していないかな

映画とか小説みたいに 

あの人のこと覗けたらいいのに

 

昨日は本当に一生で一度みたいな出会いだった

私の方が好きになったからラインは私で終わっているのかな

昨日のことが消えてなくならないように

何でもいいからラインに送りたい

先に送った方が負けでもいいから送りたい

 

たくさん喋ったのに

つっこみついでに触れたりもしたのに

写真とか動画とか撮らなかったから

あの人の顔がよく思い出せない

あーどんどん好きな顔になっていく

ラインの文字見るしかない

 

同じこと考えていないかな

あっちから送ってこないかな

もうすぐ今日終わっちゃうぞ

昨日のことがまた遠くなっちゃうぞ

 

話したこと片っ端から思い出して

送れることないか考えている

昨日が遠くならないように

消えないように

本当に本当に素敵な一日だったから

 

 

東京

 

高田馬場駅で地下鉄から西武線に乗り換えるため階段を上る。

いつもより人が多くて、なかなか地上に辿り着かない。

やっと上り終えたところで長蛇の列。人身事故の影響でダイヤが乱れているといった内容のアナウンスが耳に入ってくる。

「ハァー、仕事が早く終わった日に限って……」

紗季はスマホをいじりながら独りごちた。

大人しく改札へと続く列に加わる。

「また人身事故だって。何時に帰れるかわからんわ」

隣のおばさんが携帯で状況報告をしている。

紗季も誰かに伝えたいが特定の相手がいないため、スマホで日記アプリを開き、一足先に今日の出来事をしたためる。

会社いく。また二日酔い。『蒼穹の昴』上巻の半分まで読み終わる。おもろいけど文庫版もあったみたい。重い。上司から追加の素材頼まれる。しかも今日中だって。最初から言えタコ。忘れてたとかわけわからんし。先方に依頼。なんで私が謝らなあかんの。でもちゃんと夕方には用意する私。

そこまで打ったところで、別の改札付近で外国人と駅員がもめているのが目に入る。

「ここからは入場できません!あちらの列に並んでください」

勝手に頭の中で翻訳してみる。列はラインだけど並ぶってなんだっけ。

改札でICカードをタッチする。ホームまではまだ遠い。紗季は日記の続きに戻る。

ランチはカフェで食べた。今日の日替わりは『プルコギ定食』。料理を待っている間に置いてあった梅佳代さんの写真集を読む。また写真やってみるか。プルコギは少ししょっぱい。

やっとホームに着くともはや列は消滅していて、黄色い線ギリギリまで人がすし詰め状態。

三分おきにやってくる電車たちが人で出来た黒い塊の側面をガリガリ食べているみたい。

塊の側面がどんどん紗季に近づいてくる。

「降りるお客様を先にお通しください!」

「危ないって」

「黄色い線まで下がってください!」

「マジで死ぬ」

「次の電車にお乗りください!」

「キャー」

電車が到着するたびに、駅員の注意喚起と乗客の悲鳴が錯綜する。

紗季はスマホを握ったままショルダーバックを胸の前で抱え込んだ。

「おい、次乗るぞ。はぐれんな」

「みんなで腕組もうや」

「東京マジはんぱねぇな」

紗季の前に並ぶスーツ姿の男三人組が作戦会議をしている。

「きた」

「やった急行だって」

「勝負じゃ」

警報音と共に黄色い電車がホームに入ってくる。

ぐわんぐわんと塊がうねるように動く。

「いけ」

「勝った」

「腰折れる」

紗季も三人の勢いに便乗してうまく電車の腹の中に納まった。

「キャー!」

女子高生の悲鳴が車内に響き渡る。

「下がってください!」

「次の電車をご利用ください!」

「怪我された方はいませんか?」

先程とは違う警報音が鳴り、のそのそと電車が進み出す。

静まり返る車内には無関心が充満する。

「東京って毎日これなの?」

「まじウケるな」

「てかもう9時だし。明日は朝何時だっけ?」

「8時集合」

周囲を気にせず大声で話す三人組はよく見ると茶髪で、スーツも着慣れていない様子。

「毎日こんな感じっすか?」

三人組に挟まれた大人しそうな学生風の男が絡まれる。

「僕もこの春から上京してきたんで」

「マジっすか?大学っすか?どこっすか?」

「早稲田です」

「やばーちょー頭いいじゃん」

「早稲田ですとか言ってみてぇ」

若者の会話に耳を傾けながら紗季は負担の少ない体勢を探す。既に胸も尻も潰されている。

「それで早稲田君は童貞?」

「いきなりそれ聞く?ウケる」

「童貞です」とあっさり答える学生。

「マジ?勉強ばっかりやってるからやん」

「よしこれから風俗行こう!」

「遠慮しときます。怖いです」

日本の将来を憂いながら紗季は日記に戻る。

早めに会社出れたのに、西武線が人身事故。結局家着くのはいつもと同じくらい。

にしても男はアホばっかり。ただいま満員電車の中でしょうもない会話聞かされてる。

「早稲田君地元どこ?」

「石川です」

フリック入力をしていた紗季の親指が一瞬止まる。

「おっ近いな。俺ら新潟、明日まで研修でこっちにいるんよ」

「早稲田君とにかく勉強よりもはよ童貞卒業せんと」

「ほんとほんと、石川ってブスばっかりやったっけ?」

「そんなことないですけど」

紗季の指が激しく動き出す。早稲田!殺せ!こいつら殺せ!

「とにかくマジで気持ちーから」

早稲田言ってやれ!お前らみたいなアホは一生早稲田なんて入れんわって言ってやれ!

「僕なんて一生童貞ですよ。ていうか皆さん雰囲気ありますね。めっちゃモテるんじゃないですか?」

どんだけ大人やねん早稲田!受験勉強ってどんだけ凄いねん!

「そんなこと……あるよ笑」

殺せ!こいつ殺せ!

電車が速度を落とし、田無に到着する。

「じゃあ僕ここなんで、東京楽しんでください」

笑顔で手を振りながら降りていく学生。

「早稲田君がんばれよー!」

「童貞頑張れー!」

ドアが閉まり、また電車が進み出す。

「誰やしアイツ、まじウケるな」

高笑いする三人組の後ろで、

よう耐えたな早稲田。お前は同郷の誇りじゃ。

そう入力して紗季はスマホをバックにしまった。

 

 

令和と男と女

 

とにかく好きな格好をしたい。

田中美保ちゃんみたいなボブスタイルで、いい匂いがするツヤツヤの髪。

白くてプルプルとした触れたくなるような肌。

マーガレットハウエルの服。

カンペールの靴。

イルビゾンテの鞄。

 

男の僕がやったら女装かしら。

でも女の子になりたいんじゃなくて好きな格好をしたいだけなのだ。

 

男は青、女はピンク。

男は外で稼ぐ、女は家を守る。

男は出世する、女は子どもを産む。

男は重い物を持つ、女は食事を取り分ける。

男は黙る、女は喋る。

男が決める、女が許す。

そんなそんな他人の為の男と女の時代はとっくに終わっている。

 

令和の新時代、男と女の境界線はもっと曖昧になる。

ほっといたら誰も自発的に恋愛なんかしなくなって、恋愛の仕方を学校の授業で教えるとかそんな時代。

それでも生物学的な男と女の差異はなくならないし、いずれにせよ人類は子孫繁栄を最優先事項にするだろから、令和の時代の男と女の関係がどうなるか楽しみで仕方がない。

 

ジェンダーレス、ジェンダーフリー、LGBTQ、どれもしっくりこない。

言葉にしてしまうと、本当にもったいない。

 

令和の時代の男と女を、虚構と現実の両方で楽しもうと思います。

 

今夜このまま

二次会は公園。

さきほどから大きな身振り手振りでくだらないことばかり話しているこいつが今夜の私の相手になるのかしら。

空の闇は十分に濃いのに、近くの電灯が私たちを煌々と照らしているから、男の口から飛び出す唾がいちいち光る。

一次会の居酒屋で飲み過ぎていた小太りの男がベンチで転がっているため、私はパンプスを脱いで地べたに座っている。おろしたてのスカートを越えてちくちくと尻を刺してくる芝生の感触に耐えながら男の話が早く本題に入ることを願っている。

「そう思わない?」

「うん、本当にそう思う」

男の視線が私の足に留まる。蒸れてるから恥ずかしい。脱いだらキクラゲみたいになるこの靴下はいつから流行り出したんだっけ。

男は缶ビールを持つとベンチの前に座り込み小太りの頬をぺしぺしと叩き始めた。男の広い背中を見つめながらこいつはゲイじゃないかと疑ってみる。サキが最初から気に入っていた眼鏡の男とコンビニに行ってから既に15分は経っている。小太りはずっとあのままだし、私の連絡先を聞いて、ホテルに誘うタイミングは絶賛継続中なのに。頭の中がやたらエロくなっているのは私だけなのか。

一方的に小太りにちょっかいを出している男から視線を上に移していく。闇の中一年ぶりの満開の桜。毎年こんなに白かった? って思う。春の雪のよう。

足を投げ出して生ぬるくなった缶ビールをあおる。桜が風に揺れて他のグループの笑い声が届く。ベンチの上で小太りが器用に寝返りを打ち私たちに丸い背を向ける。私は意味も分からず春うららと呟いてみる。

男がこちらに戻ってきて私の隣にどかっと座る。すかさずビールで唇を湿らせる。無言で桜を眺めているので私もそれに従う。小太りの背中が見えなければ言うことないのに。

芝生に置かれたごつごつとした手にそっと指を触れてみる。冷たくも温かくもなかった。重ねてみる。

「居酒屋で話してた話」

「え?」

慌てて手を引く。

「夢の中で、幼馴染と学生時代の友達が夢の競演を果たしたって話」

「あぁ。覚えてたんだ」

「俺も前にあった。俺の場合、まさかの元カノ同士の共演。すげー仲良くて二人でパフィー歌ってやがんの」

私は笑いながら今度は私も参加して二人と一緒にパフュームでも歌ってやろうと思った。夢ならちゃんと踊れそう。

そしてもう一度男の手に触れた。

「今夜このまま……」と言いかけたところで、小太りがベンチからずり落ちて、背後から私を名前を呼ぶサキの声が聞こえた。