東京
いつもより人が多くて、なかなか地上に辿り着かない。
やっと上り終えたところで長蛇の列。人身事故の影響でダイヤが乱れているといった内容のアナウンスが耳に入ってくる。
「ハァー、仕事が早く終わった日に限って……」
紗季はスマホをいじりながら独りごちた。
大人しく改札へと続く列に加わる。
「また人身事故だって。何時に帰れるかわからんわ」
隣のおばさんが携帯で状況報告をしている。
紗季も誰かに伝えたいが特定の相手がいないため、スマホで日記アプリを開き、一足先に今日の出来事をしたためる。
会社いく。また二日酔い。『蒼穹の昴』上巻の半分まで読み終わる。おもろいけど文庫版もあったみたい。重い。上司から追加の素材頼まれる。しかも今日中だって。最初から言えタコ。忘れてたとかわけわからんし。先方に依頼。なんで私が謝らなあかんの。でもちゃんと夕方には用意する私。
そこまで打ったところで、別の改札付近で外国人と駅員がもめているのが目に入る。
「ここからは入場できません!あちらの列に並んでください」
勝手に頭の中で翻訳してみる。列はラインだけど並ぶってなんだっけ。
改札でICカードをタッチする。ホームまではまだ遠い。紗季は日記の続きに戻る。
ランチはカフェで食べた。今日の日替わりは『プルコギ定食』。料理を待っている間に置いてあった梅佳代さんの写真集を読む。また写真やってみるか。プルコギは少ししょっぱい。
やっとホームに着くともはや列は消滅していて、黄色い線ギリギリまで人がすし詰め状態。
三分おきにやってくる電車たちが人で出来た黒い塊の側面をガリガリ食べているみたい。
塊の側面がどんどん紗季に近づいてくる。
「降りるお客様を先にお通しください!」
「危ないって」
「黄色い線まで下がってください!」
「マジで死ぬ」
「次の電車にお乗りください!」
「キャー」
電車が到着するたびに、駅員の注意喚起と乗客の悲鳴が錯綜する。
紗季はスマホを握ったままショルダーバックを胸の前で抱え込んだ。
「おい、次乗るぞ。はぐれんな」
「みんなで腕組もうや」
「東京マジはんぱねぇな」
紗季の前に並ぶスーツ姿の男三人組が作戦会議をしている。
「きた」
「やった急行だって」
「勝負じゃ」
警報音と共に黄色い電車がホームに入ってくる。
ぐわんぐわんと塊がうねるように動く。
「勝った」
「腰折れる」
紗季も三人の勢いに便乗してうまく電車の腹の中に納まった。
「キャー!」
女子高生の悲鳴が車内に響き渡る。
「下がってください!」
「次の電車をご利用ください!」
「怪我された方はいませんか?」
先程とは違う警報音が鳴り、のそのそと電車が進み出す。
静まり返る車内には無関心が充満する。
「東京って毎日これなの?」
「まじウケるな」
「てかもう9時だし。明日は朝何時だっけ?」
「8時集合」
周囲を気にせず大声で話す三人組はよく見ると茶髪で、スーツも着慣れていない様子。
「毎日こんな感じっすか?」
三人組に挟まれた大人しそうな学生風の男が絡まれる。
「僕もこの春から上京してきたんで」
「マジっすか?大学っすか?どこっすか?」
「早稲田です」
「やばーちょー頭いいじゃん」
「早稲田ですとか言ってみてぇ」
若者の会話に耳を傾けながら紗季は負担の少ない体勢を探す。既に胸も尻も潰されている。
「それで早稲田君は童貞?」
「いきなりそれ聞く?ウケる」
「童貞です」とあっさり答える学生。
「マジ?勉強ばっかりやってるからやん」
「よしこれから風俗行こう!」
「遠慮しときます。怖いです」
日本の将来を憂いながら紗季は日記に戻る。
早めに会社出れたのに、西武線が人身事故。結局家着くのはいつもと同じくらい。
にしても男はアホばっかり。ただいま満員電車の中でしょうもない会話聞かされてる。
「早稲田君地元どこ?」
「石川です」
フリック入力をしていた紗季の親指が一瞬止まる。
「おっ近いな。俺ら新潟、明日まで研修でこっちにいるんよ」
「早稲田君とにかく勉強よりもはよ童貞卒業せんと」
「ほんとほんと、石川ってブスばっかりやったっけ?」
「そんなことないですけど」
紗季の指が激しく動き出す。早稲田!殺せ!こいつら殺せ!
「とにかくマジで気持ちーから」
早稲田言ってやれ!お前らみたいなアホは一生早稲田なんて入れんわって言ってやれ!
「僕なんて一生童貞ですよ。ていうか皆さん雰囲気ありますね。めっちゃモテるんじゃないですか?」
どんだけ大人やねん早稲田!受験勉強ってどんだけ凄いねん!
「そんなこと……あるよ笑」
殺せ!こいつ殺せ!
電車が速度を落とし、田無に到着する。
「じゃあ僕ここなんで、東京楽しんでください」
笑顔で手を振りながら降りていく学生。
「早稲田君がんばれよー!」
「童貞頑張れー!」
ドアが閉まり、また電車が進み出す。
「誰やしアイツ、まじウケるな」
高笑いする三人組の後ろで、
よう耐えたな早稲田。お前は同郷の誇りじゃ。
そう入力して紗季はスマホをバックにしまった。